各務原空襲 誘導路に敷かれた石
戦時遺跡調査
かかみの通りと鵜沼羽場町6の交差点付近の畑に残る誘導路に
(先の大戦中に飛行機を通す為に作られた道)
敷かれていた玉石。
昭和19年6月にサイパン、グアム、テニアン島が米軍に占領されると本州も空襲される可能性が
高くなり、各務ヶ原飛行場でも飛行機を山裾に疎開させる工事が始まりました。
その一つが東飛行場から苧ヶ瀬池や船山周辺に造られた掩体壕を結ぶ誘導路です。
畑の中に川から集めた玉石を敷いて急遽作られました。
飛行機を通すときは15~6名の兵隊が引っ張たり押したりしながら運んだとの証言があります。
この交差点から愛宕山のふもとの道路まで直線で名鉄線、国鉄線を越えて作られました。
戦後米軍により撮影された航空写真から誘導路がよくわかります。
誘導路西側の細い道は苧ヶ瀬駅を通り21号線に繋がっており現在も使われている。
また、コの字型掩体が写っていますが入り口の方向が微妙に変わっています。
一降下で銃撃できないように工夫されていることがわかります。
現在この付近には鵜沼真名越町から運ばれた土砂が数か所積まれている。
戦時に作られたコノ字掩体は高さ3.5mほどだったとの証言が残されているから同じような
光景だったろう。
この見取り図は終戦直前の昭和20年7月30日に攻撃した米空母ベローウッドの
戦闘報告書に添付されていたものです。
基地の外に多くの掩体が作られて飛行機が格納されていた事がわかります。
報告書によれば戦闘機は現れず地上砲火によりグラマン戦闘機が尾部に軽微な損傷をおったと書かれている。
各務原市内にはまだ沢山の誘導路や山裾には掩体が残っており見学できる物もあります。
国土地理院 国会図書館 米軍資料等を参照した