各務原空襲Ⅱ  | 長良川 大好き 釣り blog        

各務原空襲Ⅱ 

      実は日本軍「燐爆弾」
各務原空襲を伝える米軍1トン爆弾の爆発写真と紹介され多くの本に掲載されていた写真は日本軍の「3号爆弾」で「タ弾」とも言われていたものと分かりました。B29爆撃機の撃破を狙って上空より投下したが目標の下方で爆発した瞬間を狙われた爆撃機が偶然撮影したものです。写真を不自然に思い一年ほど前から調査をしていましたが岐阜市内の戦時研究家の協力を得て原画の所有者が判明し、写真の裏書から証明されました。
11月1日号中日新聞や11月2日の岐阜新聞で大きく取り上げられました。
(原画写真①)左が北、上が東で爆撃機の進行方向

(原画写真②裏書き) パイロットに注意勧告された日付は7月6日とある

(原画写真の現在地図)

(中日新聞11月1日)

(岐阜新聞11月2日)

この写真が撮られた日付けを特定できないかと調査をしてみました。
この写真は爆発閃光により地上部分の写りが「かぶって」おり露光不足となっています。
閃光の下に写っている円形誘導路から日時を特定できないかと調べました。
大戦末期には東西飛行場から各方面に誘導路が造られ、無蓋掩体が構築されていました。
(写真①)

閃光の下A部分に誘導路の砂利舗装部分が写っておりB部分から南は未舗装の状態で写っています。
(写真②)

この写真は陸軍が昭和20年4月5日に撮影したものですが写真①のA部分は完成していますがB部分は未完成ですから4月5日以降に撮られたことになります。
(写真③)

この写真は昭和20年6月26日9時54分に作戦中のB29から撮られたものです。
当日の爆撃概要報告書から爆撃時間は9時12分~10時00分で、終了間際です。この写真には当日の爆撃目標は写っていません、この後機体は右に旋回して爆撃コースに入り、機長は機体の進路コントロールを爆撃手にゆだねます。目標上空まではおよそ2500m~3000mほどです。爆撃手はノルデン爆撃照準器を操作して機体の進路をコントロールし指定された目標上空に到達します。爆撃照準器には気温、風速、風向、高度、機速、爆弾の種類などが入力されています。機長は水平飛行を維持することに専念します。
機体は中央の白いライン旧中山道21号線に沿って進み目標上空達しました、高度は4500mから5300mです。国道の左側には高射砲陣地、右には対空機関砲の陣地が写っています。
〇印の中に掩体壕が写っていますが上の物は大型機と小型が下の物に小型2機が格納されています。誘導路も鮮明にみられ写真①に近いと思われます。
(写真④)中央左の掩体壕の中に(写真③の〇印)飛行機がみれる

写真③を拡大したものです。畑の中に伸びた誘導路や川に架かる橋の影からもほぼ、この日時だと推測できます。
さらに特定するため過去に調査された資料も参考にします。
(写真⑤)

この報告書は平成11年3月に各務原市から発行されたものです。
B29爆撃機の飛来は4月12日、6月22日、6月26日と記録されていますが4月12日は地区が違うため除外し6月22日と26日が残った当該日となります。
次に当日の天気をみてみます。
原画写真や写真③には高空から撮られたのに雲は映っておらず、地上にも雲の影は見られませんから快晴かそれに近かった好天だとわかります。
22日の爆撃概要報告書の任務218号、任務219号とも雲量50%と報告されており当日撮影された写真にはすべてに雲が映っていますが、26日の任務228号、任務231号は快晴と報告され雲量は0%~30%とされており、雲は映り込んでいません。
また新境川の深い堀切水路に注ぐ太陽光線や那加橋の北側にできた影もほぼ同じと思われます。
これらのことから昭和20年6月26日9時12分~10時00分の間に撮影されたものでしょう。写っている影からも午前中の撮影だったことがわかります。
 
この燐爆弾の攻撃は何処の基地から発進した戦闘機だったのか、B29の撃破を試みた
パイロットは誰か 戦闘詳報を探したいと思います。
この日は東海地区だけでもおよそ350機のB29が飛来しており、硫黄島からはP51戦闘機も警護に出撃しました。
 
 
<参考とした資料>
国立国会図書館デジタルアーカイブ
各務原市民の戦時記録
各務原市民の戦前・戦中・戦後史
国土地理院国土返還アーカイブ