本日は、新聞が休刊日だった。
そのため駅やコンビ二の売店でも、スポーツ紙や夕刊紙が幅を利かせていた。
スポーツ紙の一面はどれもサッカーのACミランの日本代表の本田圭祐が、セリエAで開幕から2試合連続でゴールを決めたことが大きく出ている。
そんな中で、政治・社会面のコラム記事は、テレビや新聞などメディアについて書いている。
「スポーツニッポン」16日付のみのもんたの連載コラム「我が道」の「番外編」。
「今のテレビは歯がゆくてしょうがない」と題して、テレビ報道について苦言を呈している。
「僕は今、全くテレビを見てません」というみの氏。その訳は「面白い番組がない、役に立つ番組がない、参考すべき番組がない」という3つの理由からだという。
特に「報道番組」は、本当のこと、真実を伝えようとせず、「キャスター、コメンテーターの人たちもいつも差し障りのない意見しか言わないでしょう。だから、だから見ているともう歯がゆくてしょうがない」として、「その最たる例が、『集団的自衛権の行使容認』についての各局の報道」だという。
「戦後69年、日本が一度も戦争に巻き込まれずに来たのは、米国から押し付けられたと言われながらも守り続けたこの日本国憲法のおかげでしょ。その憲法の解釈を時の内閣のが勝手に『こっちにしようよ』って変更していいんですか。
僕たちがスタジオで使うようなパネルまで使って、安倍首相が『我が国の難民が乗った同盟国の船が攻撃されたら守るのは当たり前』と説明してましたが、米国は『日本人を乗せるようなことはない』とハッキリ言ってますよ。今だって憲法に抵触しない『後方支援』という方法があるじゃないですか。なぜそれじゃダメなんですか。」
みの氏は「『集団的自衛権』『特定秘密保護法』『武器輸出三原則の緩和』は、三位一体だ」として「第2次世界大戦中、『大本営発表 ○○沖海戦で我が国が大勝利』。すべてがでたらめ、大うそ。国の都合の良い情報しか流さない。揚げ句の果てに、届いた遺骨は石ころだったなんて残酷な話しもありましたからね。時代が変わったって人殺しの道具を他の国に売っていいはずがないでしょ。すべてが戦前の日本のような状況へなっていくんじやないかと心配」だという。
「ではなぜ、ここにきて急に日本が戦前に後戻りするような道を歩き出したのか」といえば、「それは米国からの圧力」だとして、「かつての超大国といわれていた米国なら日本もその核の傘下にいるだけで許されていた。ところがベトナム、湾岸、イラク戦争で米国は相当体力を失ってしまったんです。米国兵の給料を払う『思いやり予算』だけでは足りなくり、とうとう『いざとなったら鉄砲を撃てよ』と注文を付けてきた」のだと述べる。
そして、最後に、「TVジャーナリズムの役割は、国民の生活に関わる問題を分かりやすく提起し、さまざまな意見を出し合い、日本を多少なりとも良い方向に導く一助になることだ」が、「最近は、そういう番組がどうもないようだ。少し前まではあったのに」として、「テレビに関わる者としては残念でなりません」と悔やむ。
みの氏の写真の下には「みなさん、本当にこれでいいんですか。日本の平和をきちんと考えないといけないんじゃないですか」とある。
もうひとつは、「日刊ゲンダイ」17日付のけ慶大教授の金子勝氏の連載コラム「天下の逆襲」。「朝日新聞 自主規制を始め“政府公報”になってしまうのか」と題した記事。
「東電の『吉田調書』と、従軍慰安婦問題の『吉田証言』の記事について、朝日新聞がいま頃になって撤回し、正式に謝罪した」ことにいて「裏づけ取材を怠っており、撤回、謝罪も遅すぎた。猛省すべきだ」として、安倍政権がメディアコントロールをすすめている中で、「朝日新聞は少しでも間違いを犯すと、一斉にパッシングを受ける状態にあるということに無自覚だったと言わざるを得ない。原発報道の時も、当初は曖昧な立ち位置で、ジャーナリズムとしての覚悟が弱く読者の信頼を失いかけた」と指摘。
「いまや朝日新聞は、ジャーナリズムが殺されるか否かという点で重大な責任を負って」おり、「最悪なのは、これをきっかけに萎縮し、何でも慎重にと自主規制を始め、いつしか政府公報のようになってしまうこと」だとし、「それでは戦前のメディアと同じ道をたどってしまう」と警鐘を鳴らす。
「今後も朝日嫌いの安倍政権は、たとえ小さなミスでも猛烈にバッシングしてくるだろう。そのことを自覚しながら、しかしより鋭く、国民サイドに立って、権力に切り込む報道をしなければならない。さもないと、日本のジャーナリズムは死んでしまう」と述べる。
そして、激しくなるメディアの“朝日叩き”については、「もちろん、メディアによるメディア批判はあっていい。しかし、朝日叩きをしている他のメディアも、調子に乗ってバッシングを続けていると、いずれ自分たちにはね返ってくることを忘れてはならない」と述べる。
「それは理化学研究所の笹井芳樹副センター長自殺に関する報道でも感じたこと」だとし、「一部のメディアは、NHKの検証報道が厳しかったことが、自殺の動機」と報じていたが、検証報道が厳しいのは当たり前で、「むしろ、なぜ笹井氏の辞表が受理されず、責任を曖昧にする再実験を続けたのか、理研の「特定研究センター構想」失敗の責任が曖昧にされるのはなぜか、なぜ職場で自殺したのか」などについてメディアの追及は「本質を外しており甘すぎる」と述べ、「いの日本のジャーナリズムは、瀬戸際に立たされている」と述べている。
たしかに、テレビも大手新聞も、真実を伝えない、肝心なことは言わない、当たり障りのない報道で、ほんの一部の報道機関を除いて、突っ込みがなくなっている。
しかも、昨年以来の安倍首相のメディア幹部との会食が回を重ねるごとに、政府批判のトーンは弱まっているような気がする。そこへきての「朝日」誤報問題であり、へたをすると、大手メディアはますます政府や“声の大きな者”に逆らえない体質となりかねない。
メディアの本来の役割であるはずの“権力のチェック機関”はどこへいってしまうのだろうか。