佐藤なりに -ノンパスMtFが論じるジェンダーと偏見-(現在超縮小公開中)

佐藤なりに -ノンパスMtFが論じるジェンダーと偏見-(現在超縮小公開中)

社会心理系大学院生(ノンパスMtF)の考えていることを。情報発信の練習。専門であるセクマイや偏見、ジェンダーを中心にいろいろ論じております。twitter:@holyhuey 質問はこちらでも:http://ask.fm/yhmtx
SOGI(LGBT)/トランスジェンダー

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前々からずっと言い続けていることです。
近親相姦の否定は不合理である。

今の世の中では当然であるかもしれませんが、私がこの言論を提唱する度に多数の批判があるわけです。
自分と違う意見をくださること自体はありがたいものですし、私は批判に対しては基本的に真摯に受け止めその都度意見を見直すのですが...
突き付けられるのは私が既に持っている視点であることが多く、私の中でその視点に対する回答が既に完成している、ということがほとんどなのです。

というわけで、批判を受けつつもなぜ私が近親相姦を肯定し続けているか。
よくいただく批判に対する返信という形で、私の意見をまとめました。


(1)「性虐待を許すな!」「近親姦を認めれば性虐待被害が増える!」「性虐待を裁くことが間違っているというのか!」

これが一番よくある批判です。

まず、私は「近親姦」の全てを認めているわけではありません。
「相姦」、砕いて言えば「合意の上でのセックス」であることを前提としての肯定です。

そして当然ですが、私がここでいう「合意の上でのセックス」には「準強姦」に相当するものは含みません。
泥酔させたり、相手を脅したり、その他相手との関係性を利用したノンバーバルな圧力を利用したりして相手からYESを無理やり引き出した上でのセックスを、日本の法律は「合意の上でのセックス」「準強姦罪」として強姦罪と同じ罪の重さで扱います。

強姦および準強姦に相当する家庭内での近親姦は間違いなく性虐待であり、どうあがいても相姦と呼べるものではありません。
勿論これに関しては肯定するつもりは全くありませんし、近親相姦を肯定したところで強姦は強姦、虐待は虐待であることに代わりはありません。


(2)「近親相姦を認めたら虐待親が言い訳に使うじゃないか!」

1の批判とセットでよく来る批判です。
準強姦であり加害者が被害者を脅迫している関係にあると、加害者が相姦であると主張すれば被害者は泣き寝入りになってしまう、ということです。

その通りですね。近親相姦が公に認められれば、家庭内性虐待加害者がそうした言い訳を用いてくることは大いに考えられます。
近親相姦をタブーとする風潮が性虐待加害者を裁く上で有効に働いていることは事実でしょう。

しかし犯罪を裁くことができれば、その手段として何を犠牲にしてもよいのでしょうか。

「男性が男性に強姦される事件は一向に減らない。被害者が警察に相談しても馬鹿な話だとされ追い払われてしまい、泣き寝入りとなってしまっている。ならばもういっそ男性同性間のセックスを禁止にしよう」
...もし、レイプの撲滅を理由にその種のセックスすべてを禁じてしまえば、このような言論も同様に成り立つでしょう。

泣き寝入りの問題においては、むしろ一般的な準強姦の判定の強化を強め、その実数を減らしていく方略を考えることが筋であると私は主張します。
準強姦のより正確な取り締まりは、一般的な性犯罪だけでなく、家庭内性虐待の抑制にもつながるでしょう。


(3)「未成年の子と親の相姦はありえない!」

この言論が誤りであることは総合的にロジックすればすぐわかることです。

たとえば。
一般として、未成年者同士での相姦はありえることです。
生まれて初めて愛する相手とセックスをする年齢が未成年であることなど、少ないことではないでしょう。

ですので、未成年者と成人との相姦もありえることです。
未成年者が特定の成人を性愛の対象として見ること、また、成人が特定の未成年者を性愛の対象として見ることも、もちろん少ないことではありません。

そして、親子間での相姦はありえないことなのでしょうか。
それも恐らくNOでしょう。

なぜ「恐らく」なのかと言えば、私は親子間での相姦についての生の声を聞いたことがないからですね。
しかし「当事者の話を聞いたことがない」「身近な人から当事者であることをカミングアウトされたことがない」ことは「存在しない」ことの証明にはなりません。
そのような言論は、未だに一部の中年のお偉いのおっさんが言っている「わが社に同性愛者など存在しない」と同レヴェルです。

互いに愛し合ってセックスする親子が、この広い世の中、いないってことはまずないと思いますよ。そう考えるのが自然です。
それを否定することは、上記のおっさんの同性愛否定と同じことです。

さて。
未成年者-成人間の相姦は成り立ちうる。
親-子間の相姦も成り立ちうる。
であれば、「未成年の子と親の相姦」は当然ありえます。

恐らく絶対数は少ないでしょう。
しかし、近親相姦についてのタブーの意識から、近親相姦をしている人の中でも、それを公にしていない人が大多数でしょう。
同性愛者等と違い、家族内で成立するため、他方でコミュニティを作る必要も、出会いを求める必要もない。
偏見も相俟って、カミングアウトが必要となることが本当に少ないのです。近親愛者はセクマイ以上にマイノリティと言えるでしょう。


(4)「性虐待被害者に近親相姦の話をするな!セカンドレイプだ!」

これに関しては過去記事「セカンドレイプ」 をご覧ください。


(5)「奇形児が生まれるリスクが上がるじゃないか!」

だからなんでしょう。
全ての人間が子作りのためだけにセックスするようなドライな存在ではありませんよ。
この言論に則れば同性間でのセックスも無意味なことですし、性病感染リスクの高い男性同性愛者同士のセックスはさっさと取り締まるべきでしょうね。そしてブサイクな人は子どもがブサイクになって不幸になってしまうから子孫など残すべきではありませんね。

一応ちゃんと返信するならば、奇形児が生まれるリスクというのも実際は微粒子レヴェルで、近親姦で生まれたきょうだい同士が近親姦して...みたいなのが3,4回繰り返されて、やっと現実的な可能性になるようなもののようです。
一世代目では、この点においてはほぼノーリスクといえるでしょう。


(6)「道徳に反している!」

だからなんでしょう。
同性愛とて以前は道徳に反したものでした。
...いや、未だに反していると判断する人も多いでしょう。

「同性愛は認めるが近親愛は認めない」
そんな「道徳」はただの「俺ルール」です。
そして、大衆に認められない言動イコール間違いではありません。


(7)「想像させるな気持ち悪い!」

だからなんでしょう。
ええ私も私の親族と相姦なんてありえませんよ気持ち悪い。
「気持ち悪い」と「他者のそれを認めない」とは全く別の話です。
自分が気持ち悪いと思うから世間から排除するべきだなんて、全能感もいいところですね。


(8)「親を悲しませるようなことを認めさせるな!」

きょうだい間での近親相姦について、たまにある批判です。
では親のために不本意な相手を選び、その相手とセックスして家庭を築くことが正しいのでしょうか。

第一、親が悲しむかどうか、ってことも、その親に依ります。
何度も引き合いに出して申し訳ないのですが、子どもの同性愛を認めない親だって未だに大勢いるわけです。そうしたケースについてもこれと同じように考えられますね。
自分の恋愛について最後に答えを出すのは自分であり、そしてその意思は尊重されるべきだと私は考えます。


(9)「判断能力のない子どもとセックスするな!」(2015/06/20更新)

コメントを受けたため、この点について追記致します。
確かに、未成年者との近親相姦についての論争ではよくみられる言論ですね。

「未成年者には判断能力がない」も、おかしな話だと思います。
未成年者の判断能力については個々の発達の程度もあり、一概に語るべきではないでしょう。
「成年ならば判断能力があるのか」、という話にもなります。

現行刑法で性的同意年齢が定められておりますので、それについて紹介いたしますね。
実質的に、日本における性的同意年齢は「13歳」です。
刑法176条の強制わいせつ罪は、13歳未満の者にわいせつな行為をした場合、または13歳以上の者に対し暴行または脅迫を用いてわいせつな行為をした場合に適用されます。
つまり、13歳以上ならば性的同意年齢であり、法的には判断能力はある、と考えられるものです。それ未満ならば、近親相姦であろうとなかろうと当然犯罪です。
(「小児性愛」のDSM診断基準も基本的には13歳以下です)
もちろん人によって発達のスピードは異なりますが、「準強姦」の定義がその歯止めになっているでしょう。仮に13歳以上であったとしても、成人であったとしても、その個人の判断能力が明らかに未熟である場合には性行為をすべきではないでしょう。その行為は準強姦に相当すると考えます。

ちなみに、よく言われる「18歳」は児童福祉法によって定められた数値です。これは雇用関係、身分関係等を濫用し、自分または第三者と性行為を「させる」ことを処罰する法律です。したがって、上記のような13歳以上の者との合意の上での性行為を処罰するものではありません。勘違いされやすいポイントですね。

私はこれらの法律に則り、13歳以上の合意の上での性行為は基本的に認めるスタンスです。



主なところではこのくらいですかね。
私の意見はおおかた書けたと思います。

この私の言論を受けての意見、また別の角度からの批判等があれば幸いです。
長くなりましたが、お読みいただきありがとうございました。

佐藤



※2015/11/17追記
私は近親愛者を同性愛者やトランスジェンダーのようなセクシュアルマイノリティとして位置付けてはおりません。
想像ですが、近親愛者は「親族の特定の誰かに性愛感情を持った」までであり、「特定の誰かに限らず恋愛対象が親族である」わけではないのではないでしょうか。
つまり、近親愛は、男性や女性といった「性のカテゴリを基準とする性的指向」ではないでしょう。(ただ、少なくとも、本文中でも述べた通り、近親愛者は間違いなくマイノリティです。)
本記事においては、「社会から認められておらず偏見を持たれている恋愛や性愛の感情」という共通点から、より理解の深まりつつある同性愛に置き換え、近親相姦についての説明をしているまでです。
お間違えのないよう、宜しくお願いいたします。
私今年のおみくじは大吉でした。わーい。
神様昨年はありがとうございます。
今年もいいことありますように。

さて。
私1992年生まれ。数え年で24歳です。
男性にとって前厄の歳なのです。(参考:厄除け・厄払い神社どっとこむ
ほら、私MtXなので、中身は女ですが身体は男性なのですよ。だから今年は前厄...?

ん?厄年の性別って、身体性基準なのでしょうか?
それとも、性自認基準なのでしょうか?
これ、トランスジェンダーにとっては大事なところです。

というわけで調べてみました。


まず、googleで厄年と性について検索をかけようとすると...

検索候補に「厄年 性同一性障害」が!
やはり日本のトランスの方々には、私と同様の疑問を持たれる方も少なくないようですね。

しかしこの検索では、明確な答えは見つかりませんでした。
むー...今から神道における性の概念について調べてみるべきか...

と考え、その線でもいくらか調べてみたのですが、こちらもなかなかいい情報に当たりません。


つまりこれ、誰も持論を展開していないのでは...?
少なくとも、ネット上にはなさそうです。

仕方ないので自分の頭で考えてみました。
その結果、ストレートな発想ではありますが、

身体に関する厄は身体性基準
精神に関する厄は性自認基準

と考えてよいのでは?
という仮説が、私の中では最も合理的でした。


身体に関する厄とは、災害や事故、怪我や病気などです。
精神に関する厄とは、人の縁や精神疾患、気分などです。

そう考えると、身体性が男性で性自認が女性の私は、今年は身体の前厄です。
とはいえ大吉なので大丈夫でしょうけれどね。占いを信じます。


しかしこう考えると...
私含めFtMやMtFの方々は18歳から43歳までの26年間のうち、実に18年も厄年が絡んでくるのですね。
3年に2年くらい厄年...まあ、いっぺんに来ないだけ良しと考えますか。


ならばXジェンダーの方々の厄年はどうなのでしょう...とか考え出すとキリがなさそうですので、とりあえずここまで。
身体と精神での区別はあくまで私の考えですので、こういう考え方もあるんだなーくらいに受け止めていただければと思います。

お読みいただきありがとうございました。

佐藤

今日は常日頃からの疑問を。

いつもよりちょっと短めです。章も分けません。

 

セカンドレイプとは、性的二次被害のことです。

 

「レイプや性犯罪、性暴力の被害者が、その後の経過において、更なる心理的社会的ダメージを受けること。」(引用:はてなキーワード

今や性虐待や性犯罪について考える際、欠いてはならない概念ですね。

 

 

さて本題。

 

 

実父から性虐待を受けたことを公表し、そうした性虐待についての話題をよく取り扱っている、とある活動家さん(ここではAさんとします)にTwitter上で噛みついたことがあるのですよ。

 

「近親相姦」という語を用いていた某新聞記事をAさんが公に拡散し、「(家族間での)未成年者の相姦はありえない。記事を修正しろ」という旨をその新聞社に述べたのですね。

 

それに対して私は疑問を投げかけました。「ありえないわけがない」というのが私の考えです。

 

「親やきょうだい、親戚に恋愛感情を抱く子どもがいないわけがなく、しかしそれらの子どもの葛藤も含めその事実を「ありえない」と一蹴...これは同性愛者が受けてきた迫害と似ていますね。少なくとも私はそう思います。」

 

 

と、そんな感じの旨を。

 

(この考えについて詳しく述べると脱線するので省略します。「性虐待」と「近親相姦」については、またいずれ別の記事にする予定です。)

 

 

その発言に対してもうAさんのフォロワーから私に対する批判がわーわー。

 

 

勿論、私の意見をちゃんと読んだ上での批判もあり、それはありがたいです。いろんな考えが知れるので。

 

しかし大部分は「セカンドレイプだ!」「人間性を疑う」「悪意の塊」「性虐待を肯定するな!」みたいなもの。大炎上。

 

もう最後の「性虐待を肯定するな!」とかひどい名誉棄損です。そんなことは一言も言っていないどころか性虐待についての私の立場ははっきり示しましたが、そういうツイートもたくさん見受けられました。

その流れの中で私に賛同してくださった方も少なからずいたのですが...

 

 

さて、私の発言はセカンドレイプに当たるのでしょうか。

 

 

 

私はそうは思いません。

 

少なくとも、規制されるべき発言ではありません。

 

こうした反論が許されないならば、Aさんの語る性虐待についての持論がどんな極論であっても、皆それに対して口出しをすることはできなくなってしまいます。

 

 

セカンドレイプの基準は、基本的には性被害者の主観に拠ります。

 

しかしその性被害者がその事実を公表し、一般論として、それなりの(この界隈ではトップクラスの)影響力を以て性虐待や近親相姦について語っている。

それに対し、その当人の受けた性被害とは別に、一般論としてそれに意見すること。

これがいけないことなのでしょうか。

 

 

こうした語の氾濫は怖いですね。正義の名のもとにどんどん人が悪に仕立て上げられる。

 

 

しかし「セカンドレイプ」は大切な概念です。

性虐待や性犯罪を考える際に、欠いてはならない概念。

大事なことなので冒頭にも言いました。

 

この語について明確に定義することは困難でしょう。

 

しかし、今回紹介したケースがセカンドレイプなのか、そうでないのか。

私の言動は間違っていたのかどうか。

視点によってその答えは変わってくるでしょう。

この記事を受け、それについて考えてくださると幸いです。

 

お読みいただきありがとうございました。

佐藤