「命のビザ」を発行する2年前にユダヤ人を救ったもう一人の日本人【樋口季一郎】
ウィキ抜粋
1937年(昭和12年)12月26日、第1回極東ユダヤ人大会が開かれた際、関東軍の認可の下で3日間の予定で開催された同大会に、陸軍は「ユダヤ通」の安江仙弘陸軍大佐をはじめ、当時ハルピン陸軍特務機関長を務めていた樋口(当時陸軍少将)らを派遣した。この席で樋口は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるナチス・ドイツの反ユダヤ政策を、「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と、間接的に激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた。そうした状況下、翌1938年(昭和13年)3月、ユダヤ人18名がナチスの迫害下から逃れるため、ソ連〜満州国の国境沿いにある、シベリア鉄道・オトポール駅(現在のザバイカリスク駅)まで逃げて来ていた。極東ユダヤ人協会の代表のアブラハム・カウフマン博士から相談を受けた樋口は直属の部下であった河村愛三少佐らとともに即日ユダヤ人への給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施、更には膠着状態にあった出国の斡旋、満州国内への入植や上海租界への移動の手配等を行った。日本は日独防共協定を結んだドイツの同盟国だったが、季一郎は南満州鉄道(満鉄)総裁だった松岡洋右と直談判して了承を受け、満鉄の特別列車で上海に脱出させた。その後ユダヤ人たちの間で「ヒグチ・ルート」と呼ばれたこの脱出路を頼る難民は増え続け、上海まで彼らを乗せる列車を手配した東亜旅行社(現在の日本交通公社)の記録によると、満州から入国したユダヤ人の数は、1938年だけで245名だったものが、1939年には551名、1940年には3,574名まで増えている。また、松井重松(当時、案内所主任)の回想録には「週一回の列車が着くたび、20人、30人のユダヤ人が押し掛け、4人の所員では手が回わらず、発券手配に忙殺された」と記されている。しかし、ドイツへの外交的配慮からか、多数の難民が殺到した際の具体的な人数に関する公的文書は残されていない。
樋口の孫の樋口隆一(明治学院大学名誉教授/音楽学)は、難民の数は極東ユダヤ人協会のカウフマン会長か現場の河村愛三少佐(当時)からの報告によるものとした上で、「1933年から1939年までにドイツを脱出したユダヤ人は、近年のドイツの調査では25万人から31万人といわれていますから、二万人という数もあながち荒唐無稽ではありません」(cf.「ウォッカの小瓶と鴨居の小さな水彩画 … 祖父の思い出」『歴史街道』2012年4月号)と述べている。他にも『流氷の海』(1973)の作者・相良俊輔などが「二万人説」を唱えている。東京裁判においてソ連からA級戦犯として引き渡し要求があった樋口に対し、当時ニューヨークに本部を置いていた世界ユダヤ協会が米国防総省に助命嘆願を働きかけ、戦犯リストから外させたというエピソードや、杉原千畝と共に、安江仙弘と樋口の名がゴールデンブックに刻まれ、日本イスラエル協会から名誉評議員の称号を贈られている事実から判断すると、オトポール事件の史実としての存在を疑う余地はないといえる。
樋口がユダヤ人救助に尽力したのは、彼がグルジアを旅した際の出来事がきっかけとされている。ポーランド駐在武官当時、コーカサス地方を旅行していた途中チフリス郊外のある貧しい集落に立ち寄ると、偶然呼び止められた一人の老人がユダヤ人であり、樋口が日本人だと知ると顔色を変えて家に招き入れたという。そして樋口に対し、ユダヤ人が世界中で迫害されている事実と、日本の天皇こそがユダヤ人が悲しい目にあった時に救ってくれる救世主に違いないと涙ながらに訴え祈りを捧げた。オトポールに辿り着いたユダヤ人難民の報告を受けたとき、樋口はその出来事が脳裏をよぎったと後述している。
この事件は日独間の大きな外交問題となり、ドイツのリッペントロップ外相からの抗議文書が届いた。樋口は関東軍司令官植田謙吉大将に自らの考えを述べた手紙を送り、司令部に出頭し関東軍総参謀長東条英機中将と面会した際には「ヒトラーのおさき棒を担いで弱いもの苛めをすることは正しいと思いますか?」と発言。この言葉に理解を示した東条英機は、樋口を不問とした。東条の決断と、その決定を植田司令も支持したことから関東軍内部からの樋口に対する処分要求は下火になり、独国からの再三にわたる抗議も、東条は「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴した。季一郎の名前は、ユダヤ民族に貢献した人々の名を刻むエルサレムの「ゴールデンブック」にも記載されている。孫の樋口隆一明治学院大名誉教授は2018年6月15日にイスラエルのテルアビブで「ヒグチ・ルート」で逃れた生存者カール・フリードマン氏の息子から「季一郎氏のユダヤ人コミュニティーに対する前向きな姿勢がユダヤ人救出を可能にした」と謝意表明を受けている。
アッツ島玉砕、キスカ島撤退
1942年(昭和17年)8月1日、札幌に司令部を置く北部軍(のち北方軍・第5方面軍と改称)司令官として北東太平洋陸軍作戦を指揮。1943年アッツ島玉砕、キスカ島撤退(いずれも対アメリカ)を指揮し、キスカ島撤退作戦では救援艦隊の木村昌福少将の要請を容れ、大本営の決裁を仰がずに独断で在留軍に、小銃を含めたあらゆる武器の海中投棄を指示して、乗船時間を短縮し無血撤退の成功に貢献した。
終戦後、対ソ連占守島・樺太防衛戦
敗戦、1945年8月18日以降占守島、樺太における対ソビエト軍への戦闘を指揮した。そのため極東国際軍事裁判に際し、スターリンは当時軍人として札幌に在住していた樋口を「戦犯」に指名した。世界ユダヤ人会議はいち早くこの動きを察知して、世界中のユダヤ人コミュニティーを動かし、在欧米のユダヤ人金融家によるロビー活動も始まった。世界的な規模で樋口救出運動が展開された結果、ダグラス・マッカーサーはソ連からの引き渡し要求を拒否、樋口の身柄を保護した
樋口季一郎、ロシアからすれば、死刑にしても余りあるほどの恨みが、あるだろう
東条英機に対しひるむことなく、マッカーサーにして尊敬を示した「人となり」なんという生き様であろう。
杉原同様、かれも日本人の鑑である
日本はね、気の合う、尊敬しあえる国、民族との交流を深めてほしいね
恩を仇で返すような国民とは、絶縁するべきですよ