円坐は、目的もなくテーマもなく、
集まった人たちで丸くなって坐り、
言葉になることがあれば言葉にし、
静かにしていてもいい場として開いている
対話の場です。
僕は円坐を2014年から始めて、
今は月に2回は定期的に、
その他不定期でいろんなところで、
いろんな人とひらいています。
サービスでも無いし、
ワガママでもない。
そんな話を円坐の前に
小林くんと出来たのが良かった。
昨日の円坐は、
僕はまた何か普段の円坐のときとは
違う自由さがあった。
小林くんが小林くんなりのことを
やってくれていることも大きかった。
あの動きは小林くんにしかできない。
なら僕は僕の動きを、
動くままにと思えた。
守人とはこういうものだ、
ということに囚われずに、
自分が話したいときは話し、
聞きたいときには聞く、
普段よりも柔らかく動く自分がいた。
それでも硬さはある。
でも硬いとだめだとか、
柔らかいと良いとかいう話ではない。
目指す型はあるようでないし、
ないようであるような、円坐であり、守人だ。
だから、毎回毎回、
自分から出てくるママに
動いてみたり固まってみたり
するしかないのだ。
でも、それはそこにいる人と
無関係に好きに動くのでもないし、
自分の気持ちと無関係に
人のために動くのでもない。
相手あっての自由と不自由があるし、
同じように、自分あっての
自由と不自由がある。
どっちがどっちとも言えない関わり合いが
常に作用し続ける空間の中で、
流れるままに運ばれるままに、
出てくるままに動いてみたらいい、
任せてみたらいいと、
円坐の始まる前にも思えたし、
終わった後にも思える、
そんな円坐だった。
※写真は円坐が終わって片付けも終わって、さぁご飯行くよーと言う前のシーン。
