阿闍梨の名の重み:師から授かる信頼の証


密教の修行:僧侶になるための道のりをやさしく解説

密教と聞くと、どこか神秘的で近寄りがたいイメージを持つ方も多いかもしれません。けれど、そこにはただ厳しいだけではない、深く人の心を支える力があります。本記事では、密教僧になるための修行の道のりをやさしく紐解きながら、その中に込められた祈りと意味を丁寧にお伝えします。



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目次


1. 僧侶になるための第一歩「得度(とくど)」

・出家とは自分と向き合う決意



僧侶になるには、まず「得度(とくど)」という儀式を通らなければなりません。これは、師僧から戒律(かいりつ)を授かり、自分自身が仏道を歩むことを正式に決意する、大切な通過儀礼です。このとき、修行者としての新しい名前が与えられます。



けれど、得度はあくまで始まりです。これから先、仏教の教えや経典(きょうてん)、そして実際の修法を学び、いくつもの段階を乗り越えていく必要があります。



・「心を決めた」その先にあるもの



多くの人は、人生に迷いや苦しみを抱えているときに仏の道を志します。けれど、得度は単なる逃避では通用しません。むしろ、苦しみを見つめ、その中から学び取る姿勢こそが求められるのです。



その決意を師僧に認めてもらい、ようやく仏門の扉が開かれるのです。



2. 四度加行(しどけぎょう)という100日の試練

・基礎の繰り返しが心を磨く



得度を終えると、密教僧になるための本格的な修行「四度加行(しどけぎょう)」が始まります。これは「十八道」「金剛界」「胎蔵界」「護摩(ごま)」という四つの修法を順番に行う、約百日間に及ぶ厳しい修行です。



この修行の最初にあるのが「十八道(じゅうはちどう)」。十八種類の印(いん)と真言(しんごん)を繰り返し体得する修法です。印と真言を組み合わせて、自らの心と体を清めるための護身法(ごしんぼう)を習得します。



印とは、手の指で特定の形を作ることで心身の状態を整える方法です。一見すると不思議な作法のように見えますが、繰り返すうちに自分の心と向き合う大切な行動であることがわかってきます。



・「形」から「心」へと進化する



最初は形だけをなぞるような修行かもしれません。しかし、繰り返すことで、その「形」の中に意味が見えてきます。



何のためにこの動きをしているのか、なぜこの言葉を唱えるのか。それがひとつずつ腑に落ちてくると、ただの所作(しょさ)が祈りへと変わるのです。



3. 阿闍梨(あじゃり)という名の重み

・師に選ばれるということ



四度加行を終えた修行僧が、正式に密教僧として認められるには「伝法灌頂(でんぽうかんじょう)」という儀式を経なければなりません。この儀式で、修行者は師匠から「阿闍梨(あじゃり)」という位を授かります。



阿闍梨とは、「教えを正しく伝え、実践する者」という意味をもちます。ただ修行を終えたという事実だけではこの名を得ることはできません。師僧が「この者ならば教えを正しく後世に伝えるだろう」と判断して、はじめて授けられるものなのです。



・信頼という名のバトン



この儀式では、投華得仏(とうげとくぶつ)という所作があります。目を閉じて曼荼羅(まんだら)の上に葉を落とし、自分と最もご縁のある仏を見極めるのです。



そこで得た仏とのご縁を胸に、師僧から頭に水を注がれ、密教僧としての証しである「許可(きょか)」を受け取ります。



それは単なる通過証ではなく、「あなたならば、この道を歩んでいける」という大きな信頼の証でもあるのです。



4. 密教修法が秘める本当の意味

・儀式の向こうにあるもの



密教には、「息災法(そくさいほう)」「調伏法(ちょうぶくほう)」「増益法(ぞうえきほう)」「敬愛法(けいあいほう)」という四つの大きな修法があります。どれも現実の中に生きる私たちに寄り添った力を持っています。



けれど、密教の修法の本質はそこではありません。本当の目的は「仏と一体になる」こと。印を結び、真言を唱え、儀式を重ねることで、自分と仏の境が消えていく感覚を目指します。



・「入我我入(にゅうががにゅう)」という感覚



これは、仏が自分の中に入り、自分も仏の中に入るという状態を指します。言葉にすると不思議に感じるかもしれませんが、この感覚を何度も体験すると、「もともと仏と自分は同じ存在だった」という気づきに至ります。



それは、どこか遠い存在に見えた仏が、いつの間にかすぐそばにいる、そんな不思議な感覚です。



この体験があるからこそ、密教僧たちは強く、優しく、人の痛みに寄り添えるのです。



5. 終わりに

密教の修行というと、どうしても難しそう、厳しそう、そう思われることが多いものです。けれどその本質は、私たち一人ひとりの内側にある「仏性(ぶっしょう)」と向き合う旅です。



印も真言も、火を灯す護摩の儀式も、すべては「自分自身を見つめなおす」ための手段です。日常に疲れ、心が折れそうになったときこそ、自分と向き合う小さな時間を持つことは、大きな力になります。



密教の修行には、そんな優しさと祈りが込められています。


今日はここまでにしたいと思います。


最後までご覧いただき、ありがとうございました。


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