家族にまつわるエトセトラ | 哀愁のマッチョ親父はプロテインを飲むのだ

哀愁のマッチョ親父はプロテインを飲むのだ

プロレスリング華☆激のプロレスラーであり、ジム経営者でもある小川聡志のブログ。

FMラジオ番組のパーソナリティーもやっているので、音楽ネタも多いかも。

ゴールデンウィーク最終日の昨日は


お昼少し過ぎまでパーソナルトレーニングの予約をいただいていたので仕事。


午後は西区に住むお袋が遊びに来ました。

溺愛している孫(息子)に会いたかったようです😊


1週間早い母の日のプレゼントを渡すことができました。


 

ん?何かバッグから取り出したかと思うと


それはセピア色の写真の数々。


先月お袋と話した時、私が


「そう言えば、俺は自分の祖父母(父方も母方も)についてよく知らないなあ。」

「さらに言えば、その先のご先祖様についてはほとんど知らないよ。」


と会話の流れで言ったようで、お袋はそれを覚えていたようでした。


家柄がどうの、家系がどうだ、という話題にはほとんど関心がなく生きてきましたが


この年齢になって、ある程度人生経験を積んだ現在、ご先祖様について無知なのは何だか申し訳ない気持ちになります。


あ、もちろん、今の自分が存在するのは両親やご先祖様のおかげという感謝の気持はありますよ。


 

母方の祖父です。

あら〜、いい男ではありませんか。

お袋たち姉妹の自慢の父親だったようですが、まあそうだろうなと思いました。

お袋たちは満州・大連の生まれなんですが、当時祖父は日本人学校の教師をしていたそうです。
ここまでは聞いていました。

で、満州には映画会社があり、映画産業は盛んだったようです。

映画会社の人に誘われた祖父は、森繁久彌さん主演の映画にて俳優デビュー。

そのまま俳優を続けることを提案された祖父でしたが、教師の道を続けることを選択。

戦争末期、一方的に条約を破ってソ連軍が大挙して攻めてきた時、

幼かったお袋は、初めて死に対する本能的な恐怖を味わい、家族は命からがら日本に帰ってきたと話してました。

日本に帰国してからも定年まで祖父は教師として奉職。

その頃に私が生まれたようです。

私の祖父のイメージは

物静かに読書をしていた姿が強いです。
穏やかでやさしい人でしたね。

お袋は興が乗ったのか、初めて聞かされる祖父母やさらには祖父母の家族のエピソードを話してくれました😊

あと、初めて見る、お袋の七五三の写真も見せてくれましたよ。
祖父にお姉さんや妹さんがいたのは知ってましたが、お袋いわく

「そりゃあ綺麗な叔母たちだったよ」と。

 
で、黙って話を聞いていた息子が面白い一言。

「で、お父さんのどこに遺伝してるの?」

こらこら、言われなくても本人がそう思ってるわい😆

ガッチリした体型、格闘技が好きなところ(父方の叔父たちは武道をやってました)、

私は完全に父方の遺伝要素が満載なのです。