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柳田洋二郎氏は大学生自殺のわずか一行の人生だった。しかしタルコフスキーに巡り会って、意義深い人生にはなったことは間違いがない。

 

(異文1)

「親父俺のために死んでくれないか」

「バカ言うでない」

「タルコフスキーは愛する者のために自己犠牲を求めているのではないか」

「それは一つの解釈だ。別の解釈だってありえるだろうが」

「理屈で言ったら俺は納得されてしまう。でも違うんだ。じゃあ、俺が死ぬよ。愛する父の為に。厄介払いになる」

 

(異文2)

「親父俺のために死んでくれないか」

「おまえを愛している。おれも十分生きたからな。それで救われるなら自己犠牲をするよ」

「ほら。強力な睡眠薬だ」

「ありがとう。飲むよ」

「・・・」

「あれっ。死なない」

「ビタミン剤だよ。お父さんは俺のために死んでくれたんだ。うれしいよ。子が親を殺すわけないだろう」

「俺は本気でおまえのために犠牲になってやろうとしたんだぞ」

「ありがとう」

 柳田邦男・洋二郎父子は幸福に生き続けた。

 

(異文3)

「親父俺のために死んでくれないか」

「バカを言え。おまえなんか死んでしまえ」

 台所から包丁を取って来ると、殺害してしまった。かっと血が上がり、有名作家の尊属殺人事件としてジャーナリズムを騒がした。著名文化人が家庭内暴力で息子からゲガを負い暴力を受けていた。世間から同情をうけた。

 

(異文4)

「親父俺のために死んでくれないか」

「御免な。拙い親で申し訳なかった。薬飲むよ」

 父は大量の睡眠剤を飲んだ。一応自殺で処理された。学歴主義の父の重圧から解放された。市井の平凡な三流サラリーマンとして余生を送った。

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ロシアの映画監督タルコフスキーの「サクリファイス」(自己犠牲)は問題作である。他人の為に自己を犠牲にするとは、現代人の最も嫌う話だ。それなのに、夏の海水浴で救出に行った人が水死することは毎年ある。不可解な人間のこの問題を扱ったのがタルコフスキーで、それにビビッドに反応したのが評論家柳田邦男・洋二郎親子だった。

 

次男さんは父柳田邦男氏に執拗に「サクリファイス」を見るように迫り、親子で見たという。(例のアラブのテロリストに人質になったのは長男らしい。)見るとタルコフスキー論を自慢げに述べて、映画のメッセージを避けてしまった。「これはダメだ」と痛感して落胆すると、自殺で父のもとを去る決定打になったらしい。そこまで決意させた「サクリファイス」に、逆に興味が湧いた。洋二郎氏は柳田邦男氏に何にを見せたかったのか。

 

映画にも父子が登場する。子は声帯再生手術を受けていて、まだ手術が成功したわけでもなかった。そんな時突然テレビが核戦争が勃発したと放送する。父は無神論者であったが、思わず神に「平和にしてくれたら神を信じる」と誓ってしまう。この世界は合理主義で解決出来ると信じていた。神など出る幕ではなかった。核も両者同量持てば相殺で戦争ではなく平和になる理屈である。

 

核戦争はなかった。単なるフェイクニュースだったのか。しかし父は一度神に誓ったことで、信仰に傾斜していった。映画では紆余曲折があって、父は子の声帯再生が成功するなら、自分は死んでも良い、つまり自己犠牲と引き換えに子を救ってくれと懇願する。

 

洋二郎氏は、これが肝だなと思ったに違いない。

 

バッハの「マタイ受難曲」が流れ響き、世界が平和なのは何処かで人知れない人が、自己犠牲を神に払っているからだというメッセージが語られる。

 

日本でも橋を渡すのに、人柱が使われる。人柱という自己犠牲によって困難な工事が完成する。世の為人の為に自己犠牲をしてもいいと思う人がいる。この世界はこういう人が底で支えているから成立しているのではないか。

 

多分自己犠牲など古臭い思想だとタルコフスキーを一笑した柳田邦男氏に、洋二郎氏は絶望と分断を痛感した。父は子に自分の通り東大を出て一流になれと強要し、迫った。その末、逆にタルコフスキーで、父の方が自己犠牲になれば良いという武器を得て、父にタルコフスキーの武器で勝負に出た。論壇50年の父と20歳の若造の弁舌では勝負にならなかった。うまく丸め揉まれてしまった。後は死ぬしか余地は残されてなかった。

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昭和17年、数ヶ月後戦争勃発という10月、太宰治は「日の出前」(戦後花火と改題)を書き、時期に不穏当という検閲に引っ掛かり発表が没にされた。不運な小説であるが、内容にもいささか欠陥があった。一種の保険金殺人事件に仕立てたのが勇み足であった。その点を留保したら、なかなかの傑作である。文学全集で収められる好短編でもある。内容はすこぶる面白いのだ。

 

画家仙之助が息子勝治に保険金二万円を掛けていることが発覚して、保険会社が警察に再調査の圧力を掛けなければ事件化しなかったのである。フランス留学をする仙之助が保険金めあての殺人を計画するだろうか。そうしないと悲劇が表面化しない。そのためにあえて太宰は保険金殺人にしたわけだ。

 

息子の非行による親子対立、はたまた子が親を殺害する、親が子を殺害する事件の先駆的な作品である。

 

太宰文学としては珍しく親の立場からの息子の非行に悩む家庭問題を扱っている。本来は息子の立場から小説が書かれなければならないわけだが、さすがの太宰すらが勝治の放蕩振り―ー東京子の放蕩の凄まじさに呆れて、親の立場に立っている。この点で、生まれて来てすいませんという太宰節が聞けないので、不人気なのかとも思える。その殺し文句を妹が吐露するわけである。

 

「兄が死んでくれて、わが家は幸福になりました」

 

 と言わせている点が、前代未聞の戦前の東京の上流社会の空気であった。田舎者の太宰にはとても冷たい感情に共感出来なかった。津島家は太宰を見捨てなかった。兄が父に殺されて幸福になる家庭とはどんな家庭なのか。

 

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 この小説の素材になった事件が新聞ざたになったと言われている。それはさておき、太宰はモデルを既に設定しているのだ。ルノワールに師事した画家梅原龍三郎(1888-1986)であり、その息子梅原成四(1918-1957)である。もちろん実際は殺害された事件はなく、梅原家の家庭問題であった。ちなみに太宰治と梅原成四とは東大仏文科の11年の先輩後輩の同窓生であった。生の噂も聞いていたことと予想される。

 そこで、小説の登場人物と梅原家の家族を比較しよう。

 

鶴見仙之助 50歳以上   梅原龍三郎  53歳

画家   ルノアールに師事 画家   ルノアールに師事

息子  勝治 23歳     息子  梅原成四(1918-1957) 23歳

妹    節子 19歳     姉   梅原紅良(1915-)26歳 

 

梅原家では娘は3歳年上の姉が該当するが、小説では妹にして、兄を批判して効果的である。両親の隠陽の感化で息子が放蕩するところまでは妹では理解できない。姉だと弟に同情の眼が出来てしまう。

 

戦後梅原成四は東大仏文科の助教授になっている。当時東大では自家用車は5人しか所有しておらず、5人の1人であった。派手で放蕩ぶりが偲ばれる。

 

その数ヶ月後、大東亜戦争が開始され、聖戦と叫ばれた。親が子を殺す家庭問題を内包している社会にあって、どこが神聖な戦争なのか。太宰治は最大の反戦小説を書いたわけだ。

 

 

 

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 朝鮮半島で艱難辛苦で築き上げた財産は無一文になった。小倉競輪場の前で大衆食堂を経営し始めた。高麗夫は、人間食うだけでいいと思った。毎日自分が食べるものを売り、売り残ったものを食べて生活をする。炊いた飯が売れて、干麺を茹でて夕食にすると、嬉しい涙が流れた。

「売れたね」

「売れましたね」

 毎日釜の飯が残らない。夫婦して喜んだ。

「お父さん。明日はもう少し多めに炊きましょうかね」

「そうだね」

 

昭和24年、待望のわが子が誕生した。高麗夫は躊躇することなく、日本で生まれた子だから和夫にしました。人間なんて自他を区別する記号でいい。それ以上でも以下でもない。

 

掘立小屋が二階家になり、大衆食堂は繁盛した。子供の面倒を見る暇もなく、小学校・中学校に進んだ。高校生になると、それなりの野心家になり、腹に一物持っていた。野望があったようだ。高麗夫はそれが気に食わなかった。人間野心を持つとろくなことはない、というのが信条でした。親父の一番嫌なことを息子がしているようだった。

 

食堂にはさまざまな人が客として来た。その一人が尋ねた。

「あのさ。何時か聴こうと思っていたんだがね。親父さんの名前、証明書の額に、高麗夫ってあるだろう。あれ朝鮮国の旧名だろう」

「そうですよ。朝鮮で生まれた子だから高麗夫」

「でも朝鮮人じゃないよな」

「生粋の日本人」

「変わっているね」

「変わったおやじでしたね」

 客はまだ納得がいかなかったようだ。北九州には朝鮮半島から来た人が大勢いた。いかにもそういう人だということがわかる人だった。差別される方の名前を付けたことが納得できかねた。

 

 さて、高校を卒業すると、息子は東京に行って歌手になった。この頃北九州の若者が大量にそういうことをした。ボラという魚が数年毎に大量発生する。そうとしか言いようがなかった。

 

 和夫は敬子に手紙で子供が出来たと告白されたら小倉に帰る気でいた。それを書いて来なかった。ということはあれほどしたのに、ついに種付けは成功しなかったと思い、次に気が楽になった。すると次第に心が離れてゆくのだった。これで歌に集中できると思った。けっこう引きずる女なので、なおさら心の一隅には俺を忘れて、新しい恋人を作って欲しかった。俺を諦めないで待ち続ける敬子が疎ましく思う自分がいた。

 

 母親は台所の作業でラジオから流れる息子の歌を聴くのが好きだった。

「おれは和夫の気が知れないのだ」

「あんたの間違いない息子だよ」

「そうかい」

「だって、あんたが言っていること歌っているもの」

「まさか」

 それは高麗夫にとって大ショックだった。自分に似ず、父親に似たと思った。親がまるで子を直視出来なかった。

 

ある日子連れの女が店に現れた。

「なんにします」

「・・・」

 一言もしゃべらなかった。

「和夫の子かい」

「・・・」

 泣き出した。台所でラーメン丼がコンクリートに落ちた音がした。のれんから高麗夫の顔がのぞいていた。

「もうお金がなくなって。せっぱつまりました」

「そうかい」

 子供は無邪気な顔をした。高麗夫がアパート代を払い、和夫との連絡を続けた。なるほど辛抱強い後を引く女だった。二階の和夫の部屋に母子は住み始めた。和夫は東京で人気女優とスキャンダルを起こして、週刊誌を騒がしていた。

 

 1974年、「青春の影」が大ヒットしていた。

 

君の心へつづく長い一本道は

いつも僕を勇気づけた

 

そんな歌だった。

 ある日突然若い男が店に現れた。

「いらっしゃいませ。なんいしますか」

 子供が注文をとった。

「・・・」

 若い男は絶句して、立っていた。

(おれの家なんだけど)

 と心でつぶやいた。近所の子が遊びに来ているのかな。

「なんにしますか」

 にこにこ笑って注文を聞いている。

店の中で父母が笑った顔が見えた。そこに女の顔が加わって笑った。

(なぜだ)

 と思った。想定外の光景だった。恋人に子供が出来て、実家で生活していた。自分の息子が父親の顔を知らないで、平然としていた。大ショックだった。

「大女優さんと浮名を流しているようで」

 父親が笑いながらからかった。

「ああ。そうか。アパートにいないからさ。もう4人でくらしているのか」

 家族ゲームは、和夫の入るパーツだけ抜けて、完成されていた。

 

                      *

 

君は女になっていた       つまり子供を産んだ母になっていた。

 

今日から君はただの女     名利名誉もない裸の女

今日から僕はただの男     名利名誉もない裸の男

 

西南戦争(1870年)以来財津家三代は、波瀾万丈の人生を歩んで来たが、「青春の影」(1974年)で、ようやく「ただの男女」でいい所にたどり着いたのだった。財津家100年史はようやく安息の地に到達した。

 

 

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明治10年、西南戦争が勃発した。西郷隆盛は熊本を攻撃した。官軍が反撃すると、熊本城と城下に火を付けて退却した。城下町も火事になり、元藩士緒方小平太の屋敷が焼失した。明治維新で家禄を失い、また屋敷も失って、心が折れた。再起出来ないほど心を痛めた。おまけに上司の娘を妻にして夫婦生活は不和であったが、この際妻は子供を置いて実家に帰った。裕福な呉服屋の後妻におさまったというから、贅沢な生活がしたかっただけの女であった。

 

 それ以来長屋に一家は移り住むと、父親は毎日釣りに明け暮れた。姉が炊事洗濯をしていたが、父は収入を確保しなかった。弟民平は友達と外で暗くなるまで遊んでいた。

 

ある日外で遊んでいた友達がばたっと消えた。不思議なことがあった。そして午後になると又姿を現して、遊んだ。次第にそんなことが立て続いた。たまたま朝遊び仲間に出会った。

「遊ぼうよ」

「またね」

 といって消えた。何時も朝に出会うと、皆は遊ばなかった。そしてある方向に消えて行くのだった。民平は、ふと後を付いて行ってみようという気になった。すると方々から子供が現われて、ある建物の中に消えるのだった。不思議な現象だった。

(これは何だ)

 と思った。

 

一日その建物を見物していた。すると、また子供の大群がその建物から排出してくるのだった。「遊ぼう」と声を掛けると、「うん」と言った。夕方まで遊んだ。

 

外から見物するのも飽きた。建物の近づいて、窓から中を見た。友達がいた。大人が話していた。窓の外から友達を笑わせると、笑った。大人が気がつくと、窓から消えた。ついに窓から子供が見ているのを発見されてしまった。未就学児童はこの頃は掃いて捨てるほど氾濫していた。学校というものを知らないのだ。その大人が財津先生だった。放課後個人的に教えてくれた。そして自腹で就学出来るようにしてくれたのだった。

 

無学の緒方民平は識字を覚え優秀な成績で高等小学校を卒業し、警官になって福井に赴任した。明治31年、公務員試験に合格して熊本県庁に勤務した。32才のときであった。

 

明治37年、16代熊本藩主細川護立は、朝鮮半島(全羅北道)で農場経営に乗り出すことになった。荒地に灌漑施設を施して水田開発をして米を作るというプロジェクトであった。これが成功すると莫大な利益になった。やはり熊本出身の人脈が使われて、灌漑施設の専門家岩永末吉と発電事業の専門家久保田豊がこの事業に参加した。灌漑用水は水田開発ばかりではなく、同時に発電事業まで考えられていたようだ。後年久保田豊は孫の細川護照に顕彰碑を依頼している。15万ウォンが投資された。最盛期には3000町歩の水田に広がり、毎年そこから収穫される米が細川家を潤した。

 

明治41年、熊本県庁の役人であった緒方民平は朝鮮の細川農場に移ることにした。

 

明治42年、水田は850町歩になっていた。大場村侯爵細川農場の看板が掲げられた。この農場では学校や病院まで開設されていた。細川護立は、学習院で武者小路実篤や志賀直哉と同級生であった。白樺派とも近く、武者のパトロンでもあった。

 

武者小路実篤が「新しき村」を設立したのが大正7年で、10年も早い。「新しき村」の原型が朝鮮の細川農場で実践されていたとも言えるわけである。

 

細川護立は利発な子ではなくむしろ期待されない子であった。家臣に刀剣の目利きがいて、目利きの道を教わった。目利きとは安くて高価な物を見出す術で、投資の才覚と勝負に通じていた。サラリーマン・コレクターとして安い時の仙崖と白隠のコレクションをした。誰も評価しない時代だった。べらぼうに安かった。誰も集めなかった。それは経済の投資に役立ったのだ。分家男爵で出発して、本家侯爵を継ぎ、細川農場の収益で大名貴族の筆頭の資産家になった。このきょ万の富で中国美術の収集家に移行した。白洲正子は中国陶磁器は彼に教わった。その縁で小林秀雄にコレクションを見せると観念的な審美眼を述べるので、激怒寸前になったという。後年美術の殿様の愛称を得た。

 

細川農場で実地訓練を積んだ民平は、自分でも荒地開発を試みるようになった。ナムピョン村が数キロ先に川があり、灌漑施設で荒地に給水を可能にする場所があるというので、開拓することにした。家の前に灌漑施設を延長して池を作った。桃の木を植て、桃源郷にした。

 

明治42年息子の緒方高麗夫が生まれた。よくも自分の子にこんな名前を付けたものだ。意外に日本人に多いのは差別意識が無かったようだ。

 

昭和5年恩師の財津先生が死期を迎え家名断絶になるので、家名を継いでくれというので財津姓になった。

 

昭和6年財津民平が没した。苦労の末に獲得した繁栄は永遠に続くはずであったが、10年後戦争になった。その4年後敗戦ということで、全財産を置いて帰国することになった。

 

 高麗夫にはキム・シクという友人が出来た。彼は高麗夫の手を握って、町や山を歩くのだった。それがこの国の友情の表わし方だという。高麗夫はキム・シクに抱く感情を、一人も日本人に感じたことがなかった。わずかな金でキム・シクに農場を売り渡す契約書を作り、この地を離れた。

 

昭和20年8月15日、博多に船で到着し、祖国の地に上陸した。父がかの地に残した努力の賜物は水泡に帰した。高麗夫は無一文であった。