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明治10年、西南戦争が勃発した。西郷隆盛は熊本を攻撃した。官軍が反撃すると、熊本城と城下に火を付けて退却した。城下町も火事になり、元藩士緒方小平太の屋敷が焼失した。明治維新で家禄を失い、また屋敷も失って、心が折れた。再起出来ないほど心を痛めた。おまけに上司の娘を妻にして夫婦生活は不和であったが、この際妻は子供を置いて実家に帰った。裕福な呉服屋の後妻におさまったというから、贅沢な生活がしたかっただけの女であった。

 

 それ以来長屋に一家は移り住むと、父親は毎日釣りに明け暮れた。姉が炊事洗濯をしていたが、父は収入を確保しなかった。弟民平は友達と外で暗くなるまで遊んでいた。

 

ある日外で遊んでいた友達がばたっと消えた。不思議なことがあった。そして午後になると又姿を現して、遊んだ。次第にそんなことが立て続いた。たまたま朝遊び仲間に出会った。

「遊ぼうよ」

「またね」

 といって消えた。何時も朝に出会うと、皆は遊ばなかった。そしてある方向に消えて行くのだった。民平は、ふと後を付いて行ってみようという気になった。すると方々から子供が現われて、ある建物の中に消えるのだった。不思議な現象だった。

(これは何だ)

 と思った。

 

一日その建物を見物していた。すると、また子供の大群がその建物から排出してくるのだった。「遊ぼう」と声を掛けると、「うん」と言った。夕方まで遊んだ。

 

外から見物するのも飽きた。建物の近づいて、窓から中を見た。友達がいた。大人が話していた。窓の外から友達を笑わせると、笑った。大人が気がつくと、窓から消えた。ついに窓から子供が見ているのを発見されてしまった。未就学児童はこの頃は掃いて捨てるほど氾濫していた。学校というものを知らないのだ。その大人が財津先生だった。放課後個人的に教えてくれた。そして自腹で就学出来るようにしてくれたのだった。

 

無学の緒方民平は識字を覚え優秀な成績で高等小学校を卒業し、警官になって福井に赴任した。明治31年、公務員試験に合格して熊本県庁に勤務した。32才のときであった。

 

明治37年、16代熊本藩主細川護立は、朝鮮半島(全羅北道)で農場経営に乗り出すことになった。荒地に灌漑施設を施して水田開発をして米を作るというプロジェクトであった。これが成功すると莫大な利益になった。やはり熊本出身の人脈が使われて、灌漑施設の専門家岩永末吉と発電事業の専門家久保田豊がこの事業に参加した。灌漑用水は水田開発ばかりではなく、同時に発電事業まで考えられていたようだ。後年久保田豊は孫の細川護照に顕彰碑を依頼している。15万ウォンが投資された。最盛期には3000町歩の水田に広がり、毎年そこから収穫される米が細川家を潤した。

 

明治41年、熊本県庁の役人であった緒方民平は朝鮮の細川農場に移ることにした。

 

明治42年、水田は850町歩になっていた。大場村侯爵細川農場の看板が掲げられた。この農場では学校や病院まで開設されていた。細川護立は、学習院で武者小路実篤や志賀直哉と同級生であった。白樺派とも近く、武者のパトロンでもあった。

 

武者小路実篤が「新しき村」を設立したのが大正7年で、10年も早い。「新しき村」の原型が朝鮮の細川農場で実践されていたとも言えるわけである。

 

細川護立は利発な子ではなくむしろ期待されない子であった。家臣に刀剣の目利きがいて、目利きの道を教わった。目利きとは安くて高価な物を見出す術で、投資の才覚と勝負に通じていた。サラリーマン・コレクターとして安い時の仙崖と白隠のコレクションをした。誰も評価しない時代だった。べらぼうに安かった。誰も集めなかった。それは経済の投資に役立ったのだ。分家男爵で出発して、本家侯爵を継ぎ、細川農場の収益で大名貴族の筆頭の資産家になった。このきょ万の富で中国美術の収集家に移行した。白洲正子は中国陶磁器は彼に教わった。その縁で小林秀雄にコレクションを見せると観念的な審美眼を述べるので、激怒寸前になったという。後年美術の殿様の愛称を得た。

 

細川農場で実地訓練を積んだ民平は、自分でも荒地開発を試みるようになった。ナムピョン村が数キロ先に川があり、灌漑施設で荒地に給水を可能にする場所があるというので、開拓することにした。家の前に灌漑施設を延長して池を作った。桃の木を植て、桃源郷にした。

 

明治42年息子の緒方高麗夫が生まれた。よくも自分の子にこんな名前を付けたものだ。意外に日本人に多いのは差別意識が無かったようだ。

 

昭和5年恩師の財津先生が死期を迎え家名断絶になるので、家名を継いでくれというので財津姓になった。

 

昭和6年財津民平が没した。苦労の末に獲得した繁栄は永遠に続くはずであったが、10年後戦争になった。その4年後敗戦ということで、全財産を置いて帰国することになった。

 

 高麗夫にはキム・シクという友人が出来た。彼は高麗夫の手を握って、町や山を歩くのだった。それがこの国の友情の表わし方だという。高麗夫はキム・シクに抱く感情を、一人も日本人に感じたことがなかった。わずかな金でキム・シクに農場を売り渡す契約書を作り、この地を離れた。

 

昭和20年8月15日、博多に船で到着し、祖国の地に上陸した。父がかの地に残した努力の賜物は水泡に帰した。高麗夫は無一文であった。