悟りとは 『間と場』
さて、私は先の三つの文章にて『安心(*1あんじん』に付いて書いて来ました。 我々人生の中でどうすれば揺れぎない安心と言う平穏心を得られるのでしょうか。 人生、お金とか名誉だけではないですね。 『人』として如何に何事に対しても心が落ち着き常に『やすらぎ』と言う幸せ(至福)を保てるのか(*2)、これが人間として我々一人一人が心の奥底で抱いている願いです。 ですが、人には常に感情が伴いますのでこの様な領域に達するのは簡単そうで並大抵ではありません。 先の文章にてこの『安心』を得られるよう書いて来ましたが読者の皆様方にはどう思われておりますでしょうか。
(*1: 安心の上『安心(あんじん)』です。
(*2: 『幸せ』も感情のうちですからこの幸せの上『慈悲』になる。)
般若心経での一番大事な文字は一番最初に書かれてある『般若波羅蜜時』の『時』で『今』です。 『今』貴方様がこの文章を読まれている『この一瞬』です。 『この一瞬に悟り有り!』です。 ですから『はっ』とか『んっ』とか感じた瞬間、この『時』貴方様は悟りの『間』に居ます。 この『間』にて悟りの領域『場』に入るかどうかです。
そして長年の経験を積んで最終的には般若心経の最後の言葉『菩提娑婆訶』となれば『安心(あんじん)』と言う『場』に入り『向こう岸』からこの世界を『慈悲の目』として自分が誰ではなく『何であるか』が確信となり悟りの揺るぎない世界に定着します。
碧眼録第32即『定上座の佇立』
公案でこの『間』と言うものを書いているのが碧巌録の第32則『定上座(じょうじょうざ)の佇立(ちょりつ)』です。
お話しは定上座が臨済和尚に『如何なるか是れ仏法の大意(*1)』と問うた時、和尚が椅子から立ち上がり定上座の胸倉を掴んで定上座の横面をぶん殴り突き倒そうとしました。 これに対して定上座は何が起きたのか分からずポカーンと佇立(たたずむ、しばらくの間立ち止まる)してしまいます(*2)。
(*1: 教えの真髄とは。)
(*2: この話しに似た経験を私の友達のインドの女性が経験しています。 ガンジス川の岸に居た時、乞食からお金をせがまれ渡したところ、急にパシッと平手打ちをくらい何が何だか一瞬訳が分からなかった話しを聞いています。 この乞食、出来た人だったのでしょうか。 不思議ですね。)
そばに居た同僚の僧が定上座に『さぁ早く和尚に礼拝をしなさい』と叱られ、はっと我に返った定上座は地面に伏して礼拝した『その時』定上座は悟ったと言うお話しです。
弟子が和尚に教えを請うのは当然の事ですが、究極的には初めから教えられないものをあえて教えなければ禅とか仏教は継続出来ません。 『仏のまた禅の真髄とは如何に』と問われた時私を含め道元でも誰でもよいのですが言葉で伝えて行く事は難しく、またその方法が最高の教え方とは言えません。 例えば般若心経の様に何回も『無』と書いても分からない人には分かりません。 ましてや精神性に興味のない人達には教えても何を言っているのか分からずです。
これを打開するにはどうすれば良いのでしょうか。 悟りの教えでの難しい処は悟りに付いては体験しか無い事です。 いくら私が喧しくまた繰り返し繰り返し説明しても悟りの経験が無い以上100%は伝わりません。 ですから臨済和尚の様に平手打ちとか棒で叩いて『今、目覚めよ』と言う願いを託すしか無いのです。
定上座がポカーンとして『間』に入ります。 この一瞬、一切の思考は滅失しています。 気が付いて伏して礼拝をしようとした瞬間、定上座は『場』に入りこの世の中の『真実』を掴み『安心(あんじん)』として迷いが消滅して般若心経の無の世界(*)に入ります。(『無位の真人(臨済)』となる。『菩提娑婆訶』) ハッピーエンディグですね。
(*: 悟って真っ先に感じる事は般若心経の言葉の全てが正しいと言う事です。)
この様な経験を読者の方々も体験されますよう心から願っている次第です。
合掌
後書き
悟った直後の定上座に悟りとは何ぞやと胸倉を掴んで『さぁ言え』と迫っても彼に引っ叩かれるだけの事でしょう。 ここら辺、禅の面白い処ではないでしょうか。
