岐鑑の悟りブログ

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スピリチュアリティー (spirituality)
愛と禅
公案解釈



悟りとは 『永遠と言う愛』 


『一輪の花』

もう二年半前のことでしょうか、私は妹の家族と一緒に京都にある六波羅蜜寺に行って空也上人立像などを見ました。 建物に囲まれ寺自体は小ぢんまりした寺と感じました。 これも歴史ですね。


見終わって外に出て、家族のグループが集まるまで私は外で待っていましたが、ひょっと気が付いたことは、玄関の車庫のゲートの隅っこに寺と同じく小ぢんまりと一輪の花が何故かぽつんと咲いているのに目が惹かれました。 一月とだと言うのに何故この花だけ咲いていたのでしょうか。 花びらはか弱く本当にちっこいものでしたが、その放つ黄色い光は幻想に満ちておりこの世のものではないような程私を誘い込みました。 私以外は誰も見ていなく、誰にも興味を引かれなく、ひっそりと何気なく、弱々しく『ただ』咲いていました。 『悟りは眼前にあり』と言われますがその通りです。 この光、只者ではなかったです。 我々を悟りに導く光です。 この様に悟りと言うものは常に(日常茶飯事に)気が付きなさいと訴え掛けて来ています。 我々はそれに気が付いていないだけです。 誰にも気が付かれず、ひっそり寂しく『ここですよ』と語り掛けているこの花は寺の本堂との豪華さとはかけ離れたものでした。 しかし、ここに悟りが有り、仏が居る。


見えるものには観えると言った処です。 毎回書いていますが、鳥の囀り、自転車の音、人の騒めき、夕日の光、波の美しさ、花の儚さ、これら全てが貴方様に毎日訴え掛けています。 願わくば、これに一刻も早く気付き覚られて戴き、何時か『うっん』と感じた時、貴方様はすでに悟りの世界に居る事を実感して戴ければ幸いです。 


しかし、どうしてこの様な事になっているのでしょうか。 何故悟りの世界の方から『早くこちらの岸に辿り着きなさい』と常に誘惑しているのでしょうか。 それは禅と仏教の根本である『慈悲』があるからです。 この慈悲が原動力になっており、この慈悲がないとこの世界はなく、個人としては自殺しては人類は滅びます。 この慈悲があるから花があり、鳥が鳴いて、竹はざわめき、水は流れます。 


良く禅でもスピリチュアリティーでも『見てるものが見られている』と言いますが、これに気が付く事です。 この観るものは誰かと言えば『慈悲』です。 鏡の中の自分を30分以上ずっと見つめて下さい。 ある時点で鏡の中の自分と実際の自分が何方であるか区別が付かなくなる事でしょう。 その『分からなくなった「時」』の一瞬が悟りで貴方様はすでに悟りの世界にいます。 この様な、Observer being observed.と言った経験をして戴ければ、我々一般人には坐禅より近道ではないかと思っております。 



しかし一つここで重要な事は、『あるもの』が無いとこの『慈悲』は感じ取れなく悟りは不可能です。 それは『愛』です。 自分自身を愛し、これに嘘を付かない。 どう言う事かと言えば、自分を愛さず、他の人達を愛する事は自分に『嘘』を付いている事になります。 自分に対して嘘を付いていては一生苦労します。 この全宇宙の真実の内の一つは、"I love myself, and I love YOU!"なのです。 自分を愛さない限り、子供や夫妻や他人にたして愛しているよと言っても嘘になり慈悲としては成り立ちません。 慈悲は愛なのですから。 


ここで重要な事を書きます。 慈悲は愛の上です。 感情には作用されません。 愛は感情の内です。 I am not of emotionsを思い出して下さい。 感情に取り憑かれては生涯感情に作用され苦労して悟れません。 愛が多すぎても嫉妬心を起こすし、少なければ自殺に走ってしまいます。 ですから愛に執着心を置かない事。 子供がいらっしゃる女性の方々には難しいと思われます。 しかし、子供は誰でも成長して行きます。 親だからとしての過剰な愛への執着心はあえて子供を失う事になりかねません。 この処難しいと思われますので以下の事を付け足しておきます。


ヨガを行っている方は分かると思いますが第四番のハートチャクラ(Anahata)にある愛を額にある第六番のアジュナ(Ajuna)に送り『智慧』を養い、第三の目を開眼してこの世の中を正しい目で眺め観る。 そうすれば愛との葛藤は減少すると思っております。 

第三の目(アジュナ)の『開眼』とは『常に何方でも無い(neither)』としての構えです。 


我々は『慈悲』に包まれております。 これを私は勝手に『大慈悲』としています。 この大慈悲が常に貴方様に智慧として愛を訴えかけております。 これを暫く練習していますと、最終的には『禅は愛なり』となります。 


是非貴方様も愛の上、『慈悲』になり、時間と空間に作用されなく(*1)、『ただ在る』(*2)としての慈悲自身(『大慈悲』)になって戴き、本当の『安心(あんじん)』とは何かを会得して下さいませ。

(#1: 時空間に作用されないとは『永遠(eternity)』です。 時間が始まる前から、また時間が終わった後でも存在するもの。 無限、永久、恒久などは時間内です。 

Infinity, ever-lasting, permanent, etc are within the time frame.)

(*2: この様に言うしか説明出来ません。)


合掌。