ヴィパッサナー瞑想も坐禅も悟り業界ではメジャーな二つの修行法と言えるでしょう。



坐禅推しの人の中には、ヴィパッサナーは気づく者と対象が分離し一つになっていないから悟りではないという人もいます。



一方OSHOは観照が種で、無心が開花、瞑想が深まれば見る者は見られる者になると言います。ヴィパッサナーにも坐禅にも肯定的な印象を受けます。



個人的な感覚では、ヴィパッサナーを修練して良かったなとは思いますが、今主にやっている井上義衍老師の法統(井上貫道老師、松本自證老師)の坐禅では観察をしないので、戸惑う部分はあります。



上江洲義秀先生の法玉明想やクリヤヨーガの瞑想はしっくり来なかったのであまりやりません。



スピリチュアルな色々イメージするような瞑想もやりません。



その他マントラ瞑想なども、しっくり来ないというか、シンプルが好きなのでやっていません。



スピリチュアル難民、非二元難民、瞑想難民、悟り難民になりかけているのでしょうか苦笑



悟りの学校のような場を創りたいと探求してきましたが、いつ悟りが訪れるのやら笑



めげずにコツコツと瞑想、坐禅を続けていくだけですね。





最高学位を得て、地位、名誉、財、富、金、物に恵まれて、年頃に来れば、いい男性いい女性にめぐりあって結婚して子供をつくり生涯優雅な生活を終えたところで、その人生は無智、めくら、迷いの人生を終えただけにすぎぬことを知ってもらいたい。(上江洲義秀先生の言葉)






悟り、解脱に至らない限り、苦しみを無くすこともできないし、本当の至福も手に入らない。


今のスピリチュアルは引き寄せとか一時的な願望実現にフォーカスし過ぎていて、人生の本当の目的を見失っている感じもする。


もちろんそれも通過点だったり、スピリチュアルを活用するのも悪くないですが、悟り、解脱という1番大事なことは忘れないようにしたいですね。


近年悟り、解脱を語る人も少しずつ増えてたように思えますが、言ってることが結構バラバラな感じがします。


一体誰が本当に悟ってんねん!


とツッコミを入れたくなります。


本当の師は内側にいる。(内側も外側もないのでしょうが)


お釈迦様も「自灯明、法灯明」と仰っているし。


自分に合ったやり方で修行、実践していくしかないのでしょう。

水星逆行中。



自分の探求遍歴を振り返ってみる。



大まかに言えばこんな感じです。



江原啓之→津留晃一→OSHO、ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ、クリシュナムルティ→禅→上江洲義秀、非二元、ノンデュアリティ→ヨグマタジ(相川圭子)→井上義衍老師の法統(井上哲玄、井上貫道、松本自證)、坐禅、善行→



想念観察、観照を長くやってきてだいぶ楽になりました。



今は観照はほどほどに、何もしない、何の作為もしない今の様子のみの坐禅を修行中です。



自分にとってスピリチュアルは探求の入り口であり、途中の景色みたいなもので、今は色々な能力も現象も落ち着いてきています。



結局は坐禅、瞑想、善行してればいいんじゃないですかね。



趣味の読書もだいぶ落ち着いてきました。



好きだったOSHOの本も文字が入ってこなくなり、読むのに一苦労です。



1万冊以上読んで良書は紹介し尽くした感があります。



でも読書は好きなので、続いていくでしょう。





もうすぐ冬至。



真理は暦を超えて今ここにあり続けるので、昔ほど気にしてはいませんが、何かいい流れになるといいなと思っています。