どの本に書いてあったか忘れてしまいましたが、oshoは悟りへの道には3種類あると言っていました。
①努力の道
②努力→無努力の道
③無努力の道
私が今主にやっているのは、井上義衍老師の法統(井上貫道老師、松本自證老師)の坐禅。
以前は主にヴィパッサナー瞑想、観照、想念観察。
井上義衍老師の坐禅は無努力の道なき道で、ヴィパッサナー瞑想、観照、想念観察は努力→無努力の道と言えるかもしれません。
oshoはヨガは努力の道と言っていたような気もしますが、どんな修行法も最終的には無努力に落ち着くのではと思っています。
努力や技法、メソッドは自転車の補助輪のようなもので、最終的には必要無いが、だからと言って完全に間違っている役に立たないものでもないでしょう。
坐禅系統の修行者がヴィパッサナー瞑想を批判したりするのは何だか違和感があります。(そのままあるがままなのでしょうが)
個人的にはヴィパッサナー瞑想や観照、想念観察ですごく楽になったので感謝していますが、今は無努力の道なき道の坐禅に興味が湧き始めたところです。
上江洲義秀先生は、覚者は自分が通ってきた道以外は苦手になるというような趣旨の発言をされていましたが、宗教宗派同士の批判や対立は見ていて気持ちいいものではないですね。
もしかしたら悟りと人格は関係ないのかもしれませんが、個人的にはピースフル(戦争も平和もない)な感じでやっていきたいです。