ヒーローには誰もがなれるわけではない。


まして、悲劇のヒーローに自分からなることなんて、決して出来ないだろう。


94年アメリカで行われたワールドカップ。


ロベルトバッジオが決勝のPKの舞台で、天高くボールを蹴り上げ、落胆を誘ったとき。


結果として、悲劇のヒーローになっただけだ。


2006年、ドイツワールドカップ決勝。


僕は、試合中一人のヒーローに釘付けになっていた。


僕だけではないだろう。世界の隅々で。何億人という人が、彼のラストダンスを見ていたんだと想う。


執拗なマークやチェックを掻い潜り、彼はワンタッチで局面を打開していった。


フランス代表の他の選手が彼に安心してボールを預け、スペースに走りこむ。


受け手のことを考えた、緩急自在のスルーパスからチャンスは幾度となく生まれ、その柔らかい身のこなしは本当にダンスを踊っているかのようだった。


彼は完璧主義者だろう。


脚本を書いて、絵コンテを描いて。アングルを考えて、選手を動かし、最後の一瞬を迎えるように演出する。


時には、自分自らが主役を演じ、ヘディングでゴールを狙った。


完璧主義者は、世界中の視線と、七万人を収容するスタジアムの歓声を浴び、それらの空間を支配していた。


ゲームを支配し、世界中の視線を支配する。


そんなことが出来るのはヒーローだからだと想う。


しかし、ひょんなことから、彼は悲劇のヒーローになろうとした。


ゲームを支配し、世界中の視線を支配しても。


自分の感情だけは支配できなかった。


テレビを見ていた僕の緊張の糸は、この瞬間に切れてしまった。


試合を作品というならば。彼は自作自演で降板していった。


僕はイタリアの優勝を素直に喜べなかった。


カンナバロが身を粉にしてスライディングし、ヘディングし、キャプテンとしてPK戦の時は腕組みをして表情一つ変えず仁王立ちで静観していた姿には。


とても感動したが、心の中に大きな燻りが残っていた。


スポーツには勝敗以上に大切なものがある。


あんなに相手を思い遣るパスが出せる人が。


ワールドカップ予選の時に救世主として、国家の威信のためにピッチに戻ってきたヒーローが。


何でこんな最後を選んだんだろう。


悔しくて、試合終わったら泣けてきた。


僕はヒーローの気持ちはわからない。


でも、あの一瞬は絶対にヒーローではなかった。


少し前に、日本のヒーローがピッチを去ったとき。


ピッチに大の字になり、サッカーが大好きな自分と向き合っていたと、彼のブログで見た。


彼はどうなんだろう?


本当にあの一瞬。彼がとても小さく見えた。


そして、ロッカールームにさがる彼の後ろ姿は。


もっともっと小さかった。