僕は「距離感」という言葉が好きである。

人と人。時間と時間。空間と空間。

大切な人といるときだって、その時に合った「距離感」をいつも探さないといけない。


距離感は短ければ良いわけではなく、長くて良いわけではない。一概に言えないのが距離感である。


三月のとある晴れた日。偶然にして必然的に日曜日がやってきた。僕は二日前に、四国から何とか帰ってきたばかりだった。以前にも書いたように、四国巡礼の旅に出ていたのである。


目的は多数あるが、その一つが、四国八十八箇所の印を押した「白衣」を頂くためであった。


「白衣」。またの名を、「白装束」。


ちょっと前であろうか。記憶に残っている方もいるだろう。

パナウェーブ研究所とかいう団体が白い服を着て、公共の部分を白い布を着せて活動していたのを。


僕の頭には?マークであったが、活動を否定することは出来ない。


本来、白装束とは、昔、四国巡礼の旅の途中、いつ命がなくなるか分らない厳しい状況が続いた。万が一、その時、つまり死を迎えたときにそのままの姿で成仏できるように、白い装束を着たのである。


白装束は「死に装束」と呼ばれるのはそのためである。


僕は無事に白衣を手にすることが出来た。88箇所、無事に修行することが出来たのである。


四国に旅に出るとき、お婆ちゃんとの別れを覚悟した。そんな厳しい状況であった。


旅に出ている数日間。お寺を周りながら、実家からの電話が掛かってこないことを祈った。

旅に出ている間、実家ではお婆ちゃんの最後の闘病生活が続いていた。

旅から帰り、実家に着いて。おばあちゃんと再会した。


厳しい状況に変わりはなかったが、僕の四国からの帰りを待っていてくれていたかのように、何かを伝えたいような表情で、空虚な言葉を発していた。


周りが思っていたよりも。僕の肝は据わっていた。本当のところ、恐かったけど。死に対する恐さより、現実の方が恐かったのである。


虚と実があるとすれば、逆転してしまったような状況であった。死が実で、生が虚なのである。


この状況で生きていることが不思議なくらいで、死に至ることのほうが現実的であった。


土曜日には、話をすることが出来た。話の内容は分らない。実のところ、虚な言葉が続いていたからである。僕は決まった時間にお経をあげていた。婆ちゃんは、所々で話しかけてきた。お経が止まる。お経を続ける。婆ちゃんが笑う。僕も笑う。婆ちゃんがお経を口ずさむ。一緒にお経をあげる。


終わってから、食事を取った。一緒に。プリンを少しだけ食べた。口が真っ赤にはれ上がっていた。涙も出ない。これが現実だからである。


明日が無事に来るだろうか。そんな疑問が続くのである。


日曜日が無事にやってきた。皆にとっては自然な日曜日だろう。公園にいったり、外食したり、遊びに行ったり。皆にも当たり前の日曜日がやってきたのである。


でも、婆ちゃんには人生最後の日曜日だった。暖かかった。温もりを感じながら、昼過ぎまで息が続いたのだった。時間が過ぎて、その一瞬一瞬が想い出になっていった。


婆ちゃんは眠るように息を引き取ったのである。安堵の瞬間であった。


死というものが、楽を連れてくれるなら。甘んじて、日曜日の使者を受け入れようと思った。


婆ちゃんは死者になった。極楽への使者になった。


生きていることが素晴らしいことは分っている。でも、人生の終焉を迎える瞬間に立ち会えたのは、本当にうれしかった。死と生には、本来、距離感なんてなかったんだと思った。


生きていた。さっきまで。今は。今は、もう息をしていない。その距離感は、短くもなく長くもなく、いみじくも儚いものであった。


僕は今、婆ちゃんの死を書き綴っている。この虚の世界に、婆ちゃんの姿を生の形で書き綴っている。


皆は思うだろう。「重いよ。」って。


僕もそう思う。個人的なことを公共性を持たせることの儚さを。


でも、そうしたいのである。エゴである。


今日は日曜日である。


生前、婆ちゃんは毎週、日曜日に僕の携帯に電話してくれた。内容は拙いものだったけど、僕の声を聞いて安心してくれる、唯一無二の存在であった。僕の携帯代を気にして、早く切るように話すから、話が途切れてよく分らなかった。婆ちゃんから掛けてくれたんだから、僕の携帯代は関係ないと何度も言ったけど。


婆ちゃんは電話代をやっぱり気にしていた。


僕は、ISEの会議中に掛かってきたとき。電話をとらないこともあった。


小さなことが後悔の念を呼び起こさせる。


僕も卒業式に参加することが出来た。


婆ちゃんは楽しみにしていた。卒業証書を。


別府にいるとき、婆ちゃんから電話がかかってくるような気がした。


携帯を片手に、虚を越えて、実を噛締めていた。


僕は、婆ちゃんが大好きであった。今もそうである。


今の婆ちゃんと僕の距離感は、生前にも増して、温もりの感じる距離感のような気がしている。