金森得水 和歌集 「那智山滝歌百首」91-95

 金森得水の和歌集は、原文のめくりの
書を、私が、読み下し、始めて活字に
したものです。

 埋もれるのは惜しい。
 専門家ではありません。
 独学で、解釈したものです。

九十一 与流比る登 落くる奈知能 瀧尓し毛 
    安ら比可多伎者 故〃路な里介利

   (よるひると おちくるなちの たきにしも 
    あらひかたきは こ〃ろなりけり)

     昼夜をとわず、滝は、落ちて流れている。
     その滝といえども、洗うことが出来ないものは、

    人間の心である。

     全く、そのとおり。
     人間の醜さや、穢れは、洗うことは
    出来ないですね。

 九十二 ミく満野能 美奈可陀幾与起 たき奈麗者 
     神代乃末〃耳 奈か禮多え世受

   (みくまのの みなかみきよき たきなれは 
    かみよのま〃に なかれたえせず)

   「みなかみ」(水上)水の流れてくる上の方。
    みなもと。物事の起源。広辞苑。

    み熊野の滝の水の流れは、清いものである。
    神代の昔から、現在にいたるまで、

   絶えることなく、流れているのである。

    み熊野の源は、信仰の深い地で
   あることと、掛けているのかも。

    さすが、み熊野の那智山の滝に、相応しい
   品格のある一首だと思います。

九十三 奈知尓きて ぬ可川く人半 瀧奈美遠 
    美亭く羅志路能 遊布とたむけむ

   (なちにきて ぬかつくひとは たきなみを 
    みてくらしろの ゆふとたむけむ)

   「ぬかづく」(額衝く。叩頭く)
    額を地につけ、拝礼する。広辞苑。

   「くらしろ」(倉代)正式の倉の代用で
   供物を収めるところ。広辞苑。

     那智にやってきて、額を地につけ、
    拝む人たち。と

     滝の流れ落ちるのを見て、供物を収め、
    神のたすけをと、供えるのだろう。

九十四 瀧逎於止 故々路尓きよく 悲〃く奈利
    神のま須てふ ミく満野乃屋満

   (たきのおと こころにきよく ひ〃くなり 
    かみのますてふ みくまののやま)

     滝の音が、心に清く、響いてくる。
     み熊野の山には、神がいいらっしゃると
    いうとおりである。

     神が住んでいる山だから、当然、
    崇高な、清いところ。

     自然に、対して素直に詠った、
    一首だと思います。


九十五 瀧の水 清き熊野能 や末奈禮者 
    神毛古〃登や 春ミ者し米家む 
  
   (たきのみず きよきくまのの やまなれは 
    かみもこ〃とや すみはしめけむ)

     熊野の山は、滝の水まで、清い。
     そういう所なので、神も、ここを

    住みかと決めたのだろう。

     この一首も、すんなりと解りやすいと
    思いますが。

「金森得水」は、私の最初のブログで紹介しました。
幕末の勢州田丸の人。

 茶人として、一部には知られていますが、
歌人としても優れていました。

 和歌集に、「那智山瀧歌百首」「北野奉納梅百首」
「草人木百首」「富士百首」、「茶器物名漫吟五十首」等が
あります。

 玄甲舎の改修の際、出てきたものです。
 そのため、存在が確認されて
いませんでした。

 また、得水は、茶道具等も作っていました。
今も、茶碗、茶杓、香合、蓋置、

花入れ等が遺され、茶道愛好家に珍重
されています。