そして今年の7月14日は・・ | satonaka☆音の見聞録

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外でこの日に纏わる事が何もなければ、部屋でフランス映画の古典的名作でも静かに何本か観てようか…とも思ったが、ちょっと出かけてあし

着いた先は、ここ

若くして故人となった或る天才歌姫を回顧する為、毎月第2の週末のみ開館されてるミュージアムで、
某ミュージカルスクール施設内の一角に設営されている。

そこには人生を “うた” に捧げた軌跡がパネルで並べられたり、ゴールドディスクや新人賞などのトロフィーも数々…そして現役だった頃の楽屋をそのまま再現したスペースも有り、様々なアイテムが揃えられております。
館内は特に撮影禁止ではないのですが、アップされた写真をご覧になるより、直接目の前にしたほうが…と思いますので、興味のあるかたは是非ご来館下さい
ここを観覧していると、人物としての歌姫の姿が脳裏に浮かび上がってきます。


勿論ここで特にフランスに関係ある事はしてないが、こまかい部分でこじつければ、あながち皆無という訳でもない (・∀・)。
例えば…
このシンボルマークは歌姫が不治の病にかかり復活を懸けて闘っていた頃、同じ闘病生活者たちの勇気になれば!とのオモイを込めて立ち上げた〈LIVE FOR LIFE〉…
それから時を経ずして生還できずに旅立ってしまいましたが、その遺志を引き継いだ事務所社長さんの尽力により、現在は特定NPO法人となっています。

そこで筆者がこの日にこじつけるキーワードですが…このシンボルマークをいま一度ご覧ください。
長い髪の女性が等身大の旗を天空向けて高々と掲げています。
果たして?図案を考えたデザイナーは何をイメージしたのでしょうか。。

最初にこれを見てるうち、だんだん薄々とは感じてたのですが、それを公衆の面前に明言された日がありました。
話は12年ほど前まで遡ります時計
歌姫地元の駅前広場でこの記念碑が落成する数日前のこと、某競艇場のイベントスペースにて約1時間ほど生前のライヴフィルムが上映されたのですが、
そこで司会者により、誰をモデルにしたのか? ハッキリその名が挙げられました。
その人物とは…

歌姫のきっかり半分の年令しか生きられなかった、15世紀のフランス人女性でした。
一度は国を救った英雄として讃えられますが、最終的には宗教裁判で有罪となり、火刑台にて生涯を閉じるのです。
きっとそのデザイナーはこの “オルレアンの乙女” と呼ばれた仏史上のヒロインと、歌姫の姿を重ね合わせたのでしょう。

(尚、20世紀には映画化も数多く、その最後に制作されたリュック・ベッソン監督のものが今では一般的に有名ですが、筆者が個人的に推薦するのはジャック・リヴェット監督による1994年の作品で、こちらが史実に一番近いと聞いています

歌姫にとってはステージ衣装もきっと、これから始まる舞台上での闘いに臨むための、“オルレアンの乙女” が纏う甲冑と同じようなものだったのでしょう。
よくよく考えると、その闘志は両者に通ずるものがあります。
そんな記憶を少しだけ振り返りましょう。


筆者が初めて歌姫に出遭ったのはデビューして既に2年近く経った1987年の春が訪れる直前…その姿を目にするのは勿論ブラウン管を通してですが、
当時ポップスや歌謡曲なと眼中になかった根暗のロック少年の目にも明らかに感じ取れる、輝ける “何か” が存在したのです。他の出演するアイドル群とは違う、一線を画した 輝ける “何か” が…

そしてテレビなど滅多に観ない筆者は歌謡番組なるものにチャンネルひねるようになるのですが、その2回目だか3回目だか…ある事に気づきました。
….というより、気づけ!と謂わんばかりの眼差しをブラウン管の向こう側から投げかけてきていたような気さえしました。
スタジオに登場するシーンは常に毅然とした姿勢で、それは他のアイドルの媚びた態度とは対照的に、口数も必要以外さほど多くもなかったのですが、ただし目だけは無言の主張が…

つまり…井戸の中のカワズではありません。そんな言葉が視線と共に筆者の胸元に飛び込んできた。
人気投票のハガキによって順位が決められる番組に於いて、常にあと一歩で他のアイドルに1位を取られていたが、実力は誰が1番なのか?一目瞭然であった。
後年に当人の語っていた「一度も1位を取れなくて悔しい…」も、その真意は、このような場所での、このような評価のされかたしか当時はない、その悔しさではなかったのか?と思うのである。

だから歌姫の存在を知って早々、器の大きな違いを感じ取り、
歌謡番組なんて相手にせず、一日も早く世界へ翔び立て!などと、気づかぬうちにブラウン管の向こう側へエールを送っていた。…そう、その視線はスタジオ内で起きてる目の前の事でなく、その先の地平線に向けられてるかのようだった。
(尤も後で調べるに、この頃は海外アーティストと共同制作するなど、既にそれは試みてたのですが…)

表には殆ど露わにしないが、内に秘められた闘志を胸に黙々と…全身からそんなニュアンスが常に発せられていた。
白か黒か?どちらか極端にはっきりさせるタイプである事も容易に察せられ、将来に於いて一度でもハマれば、何か途轍もない事をやってのけるのでは!と、そんな無限大の可能性を感じずにはいられなかった。

そしてこの闘志…言い換えれば、一種の反骨精神でもあり、
亡くなって半年も経たない頃に発刊された小冊子『天国からのアンコール』の中から見つけられる、秋元康の《ステージ上のレジスタンス》というフレーズも、当時似たようなものを感じ取っての事なのかもしれない。

 “レジスタンス” …意味は謂うまでもないから敢えて書かぬが、それを想起させた一つをここに記そう
それは亡くなって間もない頃の追悼番組で取り上げられた闘病生活についての或るエピソード・・
無菌室から一歩も外へ出られない日々が続く中、ここで毎日、ストレッチを欠かさなかったと聞いています。

これを知った時、筆者が高校生時分に聞いた、圧政と闘う活動家たちの投獄された話を思い出しました。
彼らは牢獄の中で椅子や木箱を見つけようものなら、それに脚を掛け、登っては降りて…をひたすら一日中繰り返すそうです。
つまり何処にいようと足腰の鍛錬は怠ることなく、味方の助け等によって解放された時はすぐその場で戦えるよう、常日頃から備えているのです。
歌姫も無菌室から出るとすぐ院内の廊下を元気に闊歩するようになり、病院の方々がそれを見てビックリしていたと聞きます。
全快したらその日にでもステージに立てるよう、謂わば密室同様の空間で常日頃から備えていたのです。

これを知った時、歌姫との遭遇は謂わば
“必然” だったような気がしてきました。
たしかにあの歌声はただ上手いだけでなく、内に秘めた反骨精神が如実に反映されていて、ポップスや歌謡曲など眼中になかったにもかかわらず注目の的と化したのは、その部分からであったし、やがてどんどん好きになっていったのも、それあってこそ!。
その姿は常に直球勝負!でした。


筆者の場合、たまたまロックにも通ずる “反骨精神” という言葉を用いているが、
この “闘志” は各方面のかたがたが違うカタチで感じ取っていたのでしょう。
これは秋元康で謂えば “ステージ上のレジスタンス” であるし、坂本冬美さんは “魂の込もった” 歌声として言い表しており、
そして〈LIVE FOR LIFE〉のデザイナーは “オルレアンの乙女” とイメージを重ね合わせたのである。


…かといって、7月14日とこじつけるのは、飽くまで筆者の個人的問題である。
あのシンボルマークを目にしながら、勝手 “オルレアンの乙女” の姿を思い浮かべながら心の中で「ラ・マルセイエーズ」が流れていようと、歌姫の他のファンたちにとって、もちろん関係はありません。
ちなみに歌姫の斉唱した国歌は「君が代」と「星条旗」のみです。



しかし短い歌人生の中で出逢った国歌がたまたまその二国のみだっただけで、
デビュー15周年には《歌革命》と銘打ったコンサートを行ったくらいですし、もし唄い続けられたなら…きっと!「ラ・マルセイエーズ」との出逢いもあった事でしょう★
けれどこれも今となっては単なる “たられば” に過ぎず、筆者の勝手な妄想の枠から脱するものでもありません。

それでも性懲りもなく妄想するならば、このミレーユ・マチューを凌ぐ「ラ・マルセイエーズ」になったのでは?とまで想うのですびっくり

(彼女はデビュー当時、ピアフの再来と呼ばれ、そのダイナミックな歌唱法ゆえ、国の祭典にも度々登場するフランス代表の実力派歌手です)


ミュージアムにいつも掲げられてる あの初期仕様の特大シンボルマークを目の前に、日にちが日にちである事からデザイナーのイメージした “オルレアンの乙女” の姿が思わず脳裏をよぎり、勝手にこじつけたりしましたが、
ここに記したは飽くまで日本を代表する天才歌姫であり、その存在は20年…いや、50年に一人現れるかどうか?の逸材であったと確信しています。



尚、ミュージアムの運営・管理を担っている先述のミュージカルスクールは、第二の歌姫輩出をコンセプトの一つに掲げております。
興味あるかたは下記案内をご覧ください