「もし、人目を氣にせず自分の思うままに動けたら、どれだけ楽だろう」
そんなふうに思うことって、ありませんか?
先日、駅のホームにある待合室で過ごしていたとき、
そんな「自分を貫く力」の凄まじさを
感じる出来事がありました。
冬の寒さや夏の暑さを凌ぐための待合室。
そこは、電車の到着を待つ人々が集う、
閉ざされた静かな空間です。
私はその待合室の端に座り、
穏やかに時間を過ごしていました。
すると、遠くの方から「ズルズル……ッ」
という音が聞こえてきたのです。
はじめは聞き間違いかと思いました。
でも、二度、三度。 確信に変わります。
それは紛れもなく、何かを「啜(すす)る」音でした。
音の正体は、カップ麺
(もしかしたらお蕎麦だったのかもしれません)。
さらにお弁当らしきものまで広げていました。

待合室は密閉された空間。
幸い匂いはそれほど気になりませんでしたが、
しーんと静まり返った場所で、
自分の咀嚼音や啜る音が響き渡る状況……。
その方は周りの視線などどこ吹く風。
その「氣持ちの強さ」というか、
「動じない姿勢」に、
私はある種の感服さえ覚えてしまいました
氣になって、後で「待合室のマナー」
について少し調べてみました。
やはり、長時間の滞在や食事、
あるいは勉強やパソコン作業についても、
公共の場としての是非が問われることが多いようです。
特にコロナ禍の頃は、飲食そのものが
厳しく制限されていましたよね。
今は少しずつその空氣も緩んできてはいますが、
それでも「駅の待合室で音を立てて麺を食べる」のは、
かなりハードルが高い行動に思えます。
「周りのことは一切氣にならない」という天性のタイプ?
「背に腹は代えられない」ほど切羽詰まった状況だった?
あるいは、単に「マナー」という概念の置き場所が違う?
正解はわかりませんが、
短時間で食べようとしている感じから
「背に腹は代えられない」ほど切羽詰まった状況だった?
のかなと思いながら、色々なことを考えさせられました。
マナーを守ることは、
共同体で生きる私たちにとって大切なことです。
でも同時に、私たちは「周りにどう見られるか」を氣にしすぎて、
自分を窮屈な箱に閉じ込めていることもあるのかもしれません。
あの方のように、静寂の中で
麺を啜る勇氣は私にはありません。
(したいわけではないですが・・)
けれど、「他人の目」というフィルターを少しだけ外して、
自分の「したいこと」に集中できたら、
見える世界は確実に変わりますね……。
そんなことを思った、
ある日の駅のホームでの出来事でした。
みなさんは、公共の場での
「自分流」を貫く行動、どう感じますか?
私たちの心と体と魂が
いつも幸せで満たされますように
愛を込めて
優しい真理の翻訳者
トランスフォーメショナルコーチ@
むらた・さとみ