一般的には、あと、10日で大晦日ですね。

 

ところで、どうして大晦日と言うのかご存じですか?

 

 

 

旧暦では毎月の最終日を「三十日」

 

「晦日(みそか)」と言います。

 

 

 

そして、一年で最後の晦日である12月末日を

 

「大晦日」と呼ぶようになりました。

 

 

 

太陰暦では15日が満月となり、

 

その後は月が欠けていきます。

 

 

 

「晦(つごもり)」は、「月が隠れる日」

 

という意味があることから、

 

この字が使われるようになったそうです。

 

 

 

 

さて、本題です。

 

 

 

なぜ今日が大晦日なのか(昔なら)

 

 

 

 

それは

 

 

 

明日が冬至だからです。

 

 

 

 

冬至点は一番太陽の力が弱くなる時。

 

と言うことは、

 

そこから太陽の力が高まっていく時でもあります。

 

 

 

 

そのため、冬至点は一年の中で一番大事な節目とされていました。

 

冬至点でのあり方が、その後の1年を決めるのです。

 

 

 

 

 

 

冬至点は本日12/21の夜中(24:03)

 

 

 

 

 

明日は、朝から仕事ですが

 

今夜は、冬至点のカノン瞑想に参加してから寝ます合格

(今年は無料配信です)

 

 

 

みなさまも、幸せな氣持ちで

 

冬至点をお過ごしくださいねラブラブ

 

 

 

 

私たちの心と体と魂が

いつも幸せで満たされますように飛び出すハート

 愛を込めてラブラブ

 

 

優しい真理の翻訳者

トランスフォーメショナルコーチ@

むらた・さとみ

「もし、人目を氣にせず自分の思うままに動けたら、どれだけ楽だろう」 

 

そんなふうに思うことって、ありませんか?

 

 

 

先日、駅のホームにある待合室で過ごしていたとき、

 

そんな「自分を貫く力」の凄まじさを

 

感じる出来事がありました。

 

冬の寒さや夏の暑さを凌ぐための待合室。 

 

そこは、電車の到着を待つ人々が集う、

 

閉ざされた静かな空間です。

 

 

私はその待合室の端に座り、

 

穏やかに時間を過ごしていました。 

 

 

 

すると、遠くの方から「ズルズル……ッ」

 

という音が聞こえてきたのです。

 

 

はじめは聞き間違いかと思いました。

 

 でも、二度、三度。 確信に変わります。

 

それは紛れもなく、何かを「啜(すす)る」音でした。

 

 

 

 

音の正体は、カップ麺

 

(もしかしたらお蕎麦だったのかもしれません)。

 

 

 

 さらにお弁当らしきものまで広げていました。

 

 

 カップラーメンを食べる人のイラスト

 

 

 

 

 

待合室は密閉された空間。 

 

幸い匂いはそれほど気になりませんでしたが、

 

しーんと静まり返った場所で、

 

自分の咀嚼音や啜る音が響き渡る状況……。

 

 

 

その方は周りの視線などどこ吹く風。

 

その「氣持ちの強さ」というか、

 

「動じない姿勢」に、

 

私はある種の感服さえ覚えてしまいました合格

 

 

 

氣になって、後で「待合室のマナー」

 

について少し調べてみました。

 

 

 やはり、長時間の滞在や食事、

 

あるいは勉強やパソコン作業についても、

 

公共の場としての是非が問われることが多いようです。

 

 

特にコロナ禍の頃は、飲食そのものが

 

厳しく制限されていましたよね。 

 

 

 

今は少しずつその空氣も緩んできてはいますが、

 

それでも「駅の待合室で音を立てて麺を食べる」のは、

 

かなりハードルが高い行動に思えます。

 

 

 

「周りのことは一切氣にならない」という天性のタイプ?

 

「背に腹は代えられない」ほど切羽詰まった状況だった?

 

あるいは、単に「マナー」という概念の置き場所が違う?

 

 

 

正解はわかりませんが、

 

短時間で食べようとしている感じから

 

 「背に腹は代えられない」ほど切羽詰まった状況だった?

 

のかなと思いながら、色々なことを考えさせられました。

 

マナーを守ることは、

 

共同体で生きる私たちにとって大切なことです。 

 

 

 

でも同時に、私たちは「周りにどう見られるか」を氣にしすぎて、

 

自分を窮屈な箱に閉じ込めていることもあるのかもしれません。

 

 

 

あの方のように、静寂の中で

 

麺を啜る勇氣は私にはありません。

(したいわけではないですが・・)

 

 

 けれど、「他人の目」というフィルターを少しだけ外して、

 

自分の「したいこと」に集中できたら、

 

見える世界は確実に変わりますね……。

 

 

 

そんなことを思った、

 

ある日の駅のホームでの出来事でした。

 

 

 

みなさんは、公共の場での

 

「自分流」を貫く行動、どう感じますか?ラブラブ

 

 

 

 

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優しい真理の翻訳者

トランスフォーメショナルコーチ@

むらた・さとみ

あるスタッフから


後輩の行動にもやもやしていると

 

報告を受けた時の内容です。

 

 

 

後輩から仕事の相談を受けたとき、


「それなら、家族に電話したほうがいいかもね」


と答えました。

 

 

 

後日、様子を確認すると、


電話はしておらず、

 

家族との連絡ノートに要件が記載されていました。

 

 

 

「なぜ電話した方がいいのか」

 

その理由も、きちんと伝えたはず。

 

 


それなのに、電話はされていない。

 

——どうしてだろう。
 

そんなモヤモヤが残りました、と。

 

 

 

さて、これを読んで、

 

あなたはどう感じられたでしょうか?

 

 



 

 

先輩は「電話したほうがいいかも」と言った。


でも、後輩は電話をしなかった。

 

 

 

「かも」とは言ったけれど、


「しなさい」とは言っていない。

 

 

 


先輩の中では相談してきたんだから

 

アドバイス通りに動くのが当たり前。

 

アドバイス通りには動かないのなら

 

何のために相談してきたんだろう

 

というもやもや。

 

 

 

一方、後輩の立場で考えてみるとどうでしょう。

 

相談した結果、


「電話したほうがいいかも」という助言をもらった。

 


だから、


必ずしなければいけないことではないと判断した。

 

 

 

緊急性があるわけではない。


それなら、まずは連絡ノートに記載しておこう。

 

——たぶん、それだけのこと。

 

 

 

先輩は、後輩を育てようとして、


あえて少し曖昧な表現を使うことがあります。

 

 

 

でも後輩の中には、


その曖昧さを「指示が的確ではない」


と受け取る人もいるんです。

 

 

 

人のタイプはさまざま。

 

 自立型:少しの情報でも動ける人

 

 マニュアル型:具体的な指示がないと動けない人

 

 自己判断型:言われていることは分かっていても、 

       あえてやらない人

 

 

 

今回のケースは、


後輩が「相談して得た情報」をもとに判断した結果が、


先輩の思惑と違っていた。


それだけの話なのかもしれません。

 

 

 

もし、本当に後輩を育てたいと思うのなら

 

「今の話を聞いて、あなたはどう判断した?」


「どう行動する?」

 

そこまで確認することが大切なんだと思います。

 

 

 

逆に、


アドバイスした内容と違う行動を取られるのが困る


のであれば、「かも」ではなく


「こうしてください」と、はっきり指示を出すこと。

 

 

 

育てるのか。


指示を出すのか。

 

 

 

どちらを選ぶかをスタッフに聞いたところ、


返ってきた答えは


「後者(指示を出す)にします」でした。

 

 

 

人を育てるというのは、


思っている以上に労力のいること。

 

 

 

だからこそ、


自分はいま「育てたい」のか、


それとも「確実に動いてほしい」のか

 

 

 

その立ち位置を、


先輩である自分自身が

 

知っておくことが大切なのかもしれませんラブラブ

 

 

 

 

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優しい真理の翻訳者

トランスフォーメショナルコーチ@

むらた・さとみ