生まれ故郷の横浜で、親戚が集まりました。
小さい頃は頻繁に行き来していた伯母が、お盆にホームで亡くなったので
改めて弔問に行ったのです。
高校生になった頃から、その家へ行くことがなかったので、
それはもう数十年ぶりに、よく覚えている路地を入り、
これまたよく覚えている、けれど今ではなんとなく小さく見える門構えを目にした時、
感動とも郷愁ともつかぬものを覚えました。
迎えてくれた3人のいとこたちは、ずっと年が離れていて、
当時からすでに大人だった、お兄さんとお姉さん。
今では孫が何人もいる、久しぶりに会うその人たちを前にして、
心がひゅう~っと遠い昔に帰って行くのを感じるのです。
あの、小さかった頃と今の私は本当は何も変わっていないのに、
それを包んでいるこの肉体と環境がどんどん変わって行く。
姉も弟も母も、それからいとこたちも、肉体を脱いだらあの時のままなのに、
「時」だけがすべてを変容させていくんだ。
その思いは、親戚の家を出て、ついでに昔自分たちが住んでいた家のあたりへ行ってみた時、もっと強くなりました。
田んぼのあったところには家が建ち、畑もつぶされて人が住んでいましたが、
道と川と橋は変わっておらず、幼い私たちが写真に写っている坂もありました。
それを見た時、一瞬でその時間に帰って行く、私の中の「小さい私」がいるのです。
思いがけず、それを母やきょうだいたちと共有できて、
とても幸せな気持ちになりました。
何よりも幸せに感じたのは、今、自分たちが幸せだということです。
あの頃の自分に報告しても、何ら恥じることのない「今」があり、健康で、不足がない(ほしいものはいっぱいあるけど)。
それを思い、黙って幸せを胸に抱き、笑いながら帰って来ました。
人生は、秀吉の言うように「夢のまた夢」なのかもしれません。
すべてを知っているかのような青空です。