■現代アート鑑賞対話会 感想記■
~ワタリウム美術館 フィリップ・パレーノ『アートが語り始めると』展にて~
SONY出身のジャズピアニストでもある山原すすむさんのコーディネートで、アーティスティックマインドセットというワークショップを行っていただいたご縁で、写真芸術家の北桂樹さんと、北さんの友人の写真家の浦川和也さんという二人のプロの写真芸術家の方と現代アート鑑賞対話会にご一緒させていただきました。
本投稿は、ただの美術館レビューではなく、きっかけのアーティスティックマインドセットのワークショップでも行われているのですが、現代アートを鑑賞して対話することで、誰でもアーティスティックマインドは手に入れられるという活動の感想記になります。(一部作品の仕掛けのネタバレ的な表現を含みます。)
北桂樹さんは、「Mani」という写真シリーズで国内外で個展を開いている写真芸術家さんで、浦川和也さんも、2020年4月に、ギャラリー冬青という、写真業界では有名な出版社でもある有名なギャラリーで個展を開く予定の一級建築士の肩書も持つ写真芸術家の方で、当方は、私と同僚で同志のWEBデザイナーの林さんという2名というなんとも贅沢なシチュエーション。
お二人は、アメリカのフィラデルフィアで行われた写真コンクールでお互い表彰されて招かれたという場で出会ったご縁らしく、お二人で相当な数の美術展を回っているということもあり、対話の質がはんぱなく、現代アート鑑賞対話の醍醐味を十二分に味合わせていただきました。
今回訪問したのは、外苑前のワタリウム美術館。展示アーティストは、フィリップ・パレーノさんという展覧会を一貫した一つのメディアとして捉えた哲学的な表現に定評があるフランスを代表する現代アートの芸術家の方の歴代の代表作を並べたという『オブジェが語り始めると』という個展です。
タイトルからして、哲学的なイメージがしますが、この展覧会、実際に石のオブジェがしゃべります!下の写真のこいつです。展示会タイトルそのまんまです^^
入口で私は同行してくれたリクリエーション倶楽部運営同志でWEBデザイナーでもある林さんと男二人でペアチケットを購入すると、入口でこの石のオブジェが朗読している文章の全文が書いてある紙を渡してくれます。
そこには、HPにも乗っている各作品の解説に加えて、渡された紙の裏面全体に、「しゃべる石」というフィリップ・パレーノが2018年に書いたという散文詩のような文章が、12個もの丁寧な脚注付きで入っています。
HPでも公開されている対話動画の全文書下ろし文章が会場の中においてあったりして、フィリップ・パレーノ自身の作品や展示会の意図は、そのしゃべる石や解説集で、存分に語られているという状態になっています。
『オートマンはフィクションです。フィクションはリアルなことに先行します』
(以下『』の文章の引用は、この「しゃべる石」2018フィリップ・パレーノからの引用です)
この美術展で、鑑賞対話した結果、すごいと思わされたのは、上述のように、ひたすら作家の意図や考えていることが多く語られているにも関わらず、その場での体験の中で感じさせられ、考えたり対話で行き着いたコトの方が、その何百倍も鑑賞者の心の中に刻まれるという体験をさせられるというところです。
出てくる感覚や内容は、実は、「しゃべる石」の中に書かれていることだったとしても、それが、自ら鑑賞し、対話した中からの気づきというだけで自分の中に入ってくるものが全然違ってくる感覚です。
このご時世の平日の夜の時間なので、鑑賞者はまばらでしたが、ひたすら考えては対話を繰り返す4人の男衆の風景は、通常私も描いていた「美術館なるものの中では静かに鑑賞するべきだ」というような感覚の対角に位置するものでした。(注:決してギャースカ騒いではいません)
この鑑賞対話を体験してしまった後には、いや現代アートの鑑賞ってこうやって対話しながらの鑑賞以外ありえないでしょうと思わされます。
私自身、学生時代、夏休みの短期語学留学もどきのついでに、サンフランシスコとニューヨークの現代アート巡りをしたときに、この対話鑑賞というアートとの向き合い方という概念を知っていたら、一人旅で静かに鑑賞するだけでなく、その場でいた外国人に話しかけてみたりして新しい人生の地平が開けていたかもと思うことしきりです。
『現実を待ちましょう』
個々の作品には個体としても語られる言葉を多く持ちながらも、展示している場所には、作品タイトルや解説などの言葉による表示は一切ありません。体験をして感じてもらいたいという意図でしょうか?
あえてこれ見よがしに太い配線が各作品から出ていたり、光の連動の演出は、作品本体だけではなく、会場の天井照明までプログラミングされて連動して動くとか、オブジェクトが語る言葉は、抑揚のないオブジェクト的な語り口調で、よく聞くと言いこと言っているよねというような無機質な感じだったり、ああでもないこうでもないという構造を探りたくなるおじさんには、一つ一つ意図をもった細部の演出の積み重ねがあっての作品なのだなと捉えてしまったりもします。
と、ここまで書いても、私が体験した結果得られた感覚しか記述できていない気がしてしょうがないですのですが、結果としてそうなることは、後述しますが、現代アート鑑賞対話会として訪れる当然の帰結かとも思いつつ、続けます。
『アートは歩く死体であり、しゃべる石なのです』
フィリップ・パレーノ展では、しゃべる作品は、しゃべる石ひとつだけ、作品や各作品の解説についてさんざん行いながら、各作品の関連づけの部分については、多くを語ってはいません。
例えば、この展示は一体どういう作品だと思いますか?
マンホールのようなものがあり、その周りに石が散らばっている状態です。
もし可能ならこの作品は一体何なのか少し考えてみてください・・・
ちなみにマンホールの中からは、水滴がしたたる音が流れてきていたりします。
実際の展示でも、作品解説の紙は渡してもらえますが、実際の展示では、作品のタイトル表示すらされていません。
(答え) 作品名「リアリティー・パークの雪だるま」(白い文字にしているので要選択反転)です。
本体は溶けてなくなってしまっている状態というわけです・・・
帰りに知ったのですが、入り口前の柱に雪だるまカレンダーというものが貼ってあるのですが、雪だるまが、雪だるまらしい格好で留まっている時間は、ほんのわずかな日数しかありません。
もとい、しゃべる石以外の作品は、しゃべらず、反応は、光と音だったり、雪だるまの作品は、溶けた後の台座だけという状態だったりするというシュールな状態です。
最初に雪だるまという作品があるのが分かっていても、HPや解説書には色々語られていても、各作品の展示には、タイトルを置くような野暮なことをしていない展示なので、一瞬雪だるまという作品があることを知っていても、私は気づけなくて、一体何なのだろうと思ってしまうという感じでした。
北さんと話していて、ここ雪だるまがあったはずのところですと言われてようやくああなるほどと分かりました。
この点に関しては、人に教えてもらってしまうより、このマンホールのようなところから来る水滴音と石ころから連想して、あっ!これは例の雪だるまの場所だね!と自ら気づく方が、アハ体験できる気がします。
この点は、今回2度目の鑑賞だった北さんは、もちろん心得ていて、最初は僕はしゃべらない方がいいと思います、まず皆さんで作品みてくださいとガイドしてくれていました。
『祝いの儀によって特徴づけられるときにだけ、連続性が存在します』
2回目の鑑賞の北さんは、前にはなかったパターンで動いているとおっしゃっていて、来るたび変わるような部分があるようでした。
同時に、しゃべる石とそれを上下左右取り囲む作品群のライトの点滅の連動には、一定の法則もあります。
しゃべりはじめたら、最初は、石のすぐ近くにあるライト以外は、消灯してだんだんと相槌を打つように点滅し始めて、石がしゃべり終わると、周りの作品群がだんだんと、光や音のトーンが騒がしくなっていくというようなパターンがだんだんと分かってきます。コミュニケーションを取っている風の演出です。これをどう解釈していくかは鑑賞者次第となります。
これらの観察と見解をなんとなくぼそぼそ時に触れて話し合っていくというような感じです。
「動きの変数に解説を見る限り、鑑賞者である人間は、入っていないですね。」
「人間は、蚊帳の外ですね。疎外感を感じるかもですね。」
「AIで機械だけで動いていく世界があったらこんな感じなんですかね?」
「機械のコミュニケーションって、別に言語である必要もないですよね」
「こういう風に言葉を使ってコミュニケーションをしているのなんて、数ある動物の中でも人間位なものですよね」
「人だって、言葉を使ってコミュニケーションしあっているように表面的には見えるけど、実際は言外のコミュニケーションをいっぱいしていて、言葉なんてその表象の一部でしかないですよね」
とか、言葉に書き起こしてみるとまあそれなりの内容なのですが、その場では、ワクワクしたプリミティブな会話が重なり合う感覚で、おそらく、一人で悶々と鑑賞しているだけでは突き当たってしまう壁で思考が止まってしまったり、一つの結論を得て分かったつもりになって終わりになってしまうことなく、見方が広がっていく感覚です。
対話という言葉を置いていくというスペースがあるということ自体が、非常にクリエイティブなものなのではないかと思います。
『パスされていくうちに、エネルギーを得て生気を帯びる』
例えば、最上階にあった吹き出し(白)という吹き出しの形を風船にして天井に並べた1997年の作品と、壁紙マリリンと名付けられた2018年作品とがコラボレーションされた部屋では、照明がついたり消えたりすると、壁紙の蛍光塗料の光と直接光の移り変わりの瞬間に、奇妙な感覚を覚えるのですが、怖いという感覚や、ただ子供ははしゃげるかもしれないとか、吹き出しの意味について考えてみるとか、作品の経緯を語ってみたり、壁の素材と構成と、外部の気温や風力によって動いていることを知ったりということを、色々と話していました。
こう書くと、終始しゃべっているようでもありますが、そんなことはもちろんなく、自分の中で感覚をじっくり味わってみる時間ももちろんありつつ、しゃべりたくなったり、その感覚を言葉にしてみたり、ふと思ったことや気になったことを口にしても良いし、しなくても良いという中で、作品と自分の中の感覚を味わいながら、他の人のフィルターを通して同じ場をどう感じているかということを交流しあう自由さが非常に心地よい時間でした。
『驚きと恒常的好奇心』
何か今まで美術館って黙ってお行儀よく「しなければいけない」場だと思っていて、子供たちをそういう場所に連れて行っても基本走り回ったりはしゃいだりするもので、それをどう鑑賞する方向に結び付けていくかというのも、浦川さん曰く、「どれが一番好き?なんでそう思うの?」という風に持っていくと良いとか、個人のモチベーションをどこにコントロールするかというのは非常にマネジメントの勉強にもなるとのこと。
そういう場に頻繁に連れて行っていたという浦川さんの娘さんは、全米のチア選手権で優勝してしまったりする活躍をされていたりするとのこと。知育にもやはり美術鑑賞は良いのかもしれないです。
ただ、おそらく対話というのは、言葉を自分の中で完結させずに、人の言葉と自分の言葉をつなぎ合わせていくプロセスなんでしょうという、分かったような分からない言い訳を一端置いておきます。
『中に中にと作る。中に中にと作る。中に中にと作る。中に中にと作る・・・』
一方で、言われて気づくというのはなく、あくまで気づきというのは、個々人の体験の解釈にしかないのではというようにも思います。
鑑賞対話というのは、人の言うこと聞いて、そうだよね!というものももちろんあるのですが、一緒に対話している人と歩むプロセスの中で、自分の中でこれかな?と思う気づきを拾っていくという作業を繰り返していくものである気がしています。
その自分の中の気づきの連鎖が、他の人と対話していく中でのほうが、連鎖的に色々出てくるという感覚です。
美術館を出た後のアフター鑑賞対話会という名の飲み会でも、オラファー・エリクソンの作品を2日間体験してきた話など興味深い話が続きました。
作品は緻密に設計されていながら、しかけはシンプルで、考えたり行動する余白があるという、描いたり受け入れたりするスペースをつくるという部分が大切なのかと思いました。最近個人的に関わっているいくつかのコミュニティで行われている取り組みの中で行っていることにも通じるなあと思い、それを現代アートの鑑賞対話という取り組みを通じて行う新鮮な感覚でした。
現代アート鑑賞対話感想記ということで、久々の長文投稿をしてしまうほど、凄く面白かったです。どんどん拡がってもらいたい取り組みです。
最後までお読みいただける方には大変感謝です。
最後に、しゃべる石からの引用として、アニメーションをつくる際に非常に有名なソフトの解説書に出てくる一説だという形で引用されていた文相の引用で終わっておきます。
ぼやけた物体の定義
『「これから貴方はぼやけた物体を作ります。ぼやけた物体と称するものは、ゼロパーセントしかない不透明な特徴を除いた、他の層のほとんどを含む目に見えない層です。ぼやけた物体により、目に見えることなく他の層の動きをコントロールさせるのです。」貴方の現実はぼやけた物体で作られているようです』
2020年春に行われるオラファーの現代美術館の展示が見に行きたくてたまらなくなってきました。
(参考)「展覧会」を疑え。フィリップ・パレーノと島袋道浩が語るアートのありかた
https://bijutsutecho.com/magazine/interview/20887
パレーノ展の中に、3冊もこの対談書き起こしを印刷したファイルが置いてありました。
今回の展示会の創作プロセスや、パレーノ氏の芸術論(Grammer)がとても分かりやすく解説されています。
(参考)これに行きたい!オラファー・エリクソン「ときに川は橋となる」東京都現代美術館 2020.3.14-6.14
https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/olafur-eliasson/