双子妊娠、早すぎる別れ -6ページ目

双子妊娠、早すぎる別れ

妊娠12週に、双子そろって臍帯ヘルニアかもしれないと告げられた。結局もっと重い病気だったために16週で中期中絶。自分自身の気持ちの整理のため、そして双子が生きていた証としてブログを残すことに。

2014.8.7  

今日は朝から雨。
まるで世界が双子の死を悲しんでいるようだった。


ほとんど寝れないまま朝を迎えたが、眠たくはなかった。

朝食が運ばれてしばらくしてスタッフの方がこられて、「いつ頃退院されますか」と尋ねてきたので、『午前中で』と返した。「ではもう昼食はいらないということでいいですね」と確認され、それでお願いした。

それからしばらく個室でゴロゴロしているとSさんがやってきて、夫に死亡届の説明をし、「奥さんと一緒に子どもたちも退院できるように旦那さんは手続きされてください」と。
検診がありますといって私は診察室に呼ばれた。

昨日のお産自体は出血も少なく良好なようだった。
私自身も体調は悪いわけではなく、I先生は子宮に残った胎盤をエコーでチェックしながら「まだ少し残ってますが胎盤には血液が行ってないので、そのうち剥がれてくるのを待ちましょう」と。
そして、本日の退院のお墨付きを先生からももらい、私はまた個室に戻った。

個室に戻ると旦那は死亡届の記載を終えていた。
「これって今日出せるんかな」『役所って土日もやるの?』「婚姻届は出せるじゃん」『婚姻届って警備のおじさんが受け取って、平日に役所のヒトが事務処理するみたいよ』「でも『奥さんと一緒に退院』って言ってたから、今日出せないと無理だよね」『確かに』
と、初めての手続きに戸惑っていると、Sさんが追加の子宮収縮剤を持ってきてくれたので、ついでに死亡届が今日出せるのか聞いてみた。
「出せますよ」とのことだったので、夫は死亡届を出しに市役所へ。

私たちの場合、提出書類は死亡届のみ。
この死亡届を役所に持って行くと、火葬許可証というのをくれるそうだ。
この火葬許可証がないと遺体を動かす事ができないため、Sさんは夫に早めの手続きを勧めたのだろう。
双子たちは冷蔵庫で眠っているが、いくら今日が雨で涼しいとはいえ夏場の暑さでやられてしまう前に、ちゃんと天に帰してあげたかった。

しばらくして夫が市役所から戻り、それから火葬場に予約の電話を入れた。
Sさんは、赤ちゃんは小さいので、当日でも隙間の時間でやってくれることが多いと言っていたが、電話を切った夫は「今日は友引だから空いてるんだって。一応午後一時半に予約いれたよ。」と。『うん分かった』と私。

友引。昔何かのついでに調べた時、友引の友の字は、元々は友という字ではなかったとあった。
時代が移るにつれ、言葉の響きから漢字が代わり、代わった漢字から意味が変わったそうだ。
私は信心深くないわけではないが、流転するものに振り回されるのは好きではない。
夫は無神論者のため、こういう類いのものは全く気にしていない。
大事なのはヒトの心ゆえ、気にする方は避けて頂ければよいと思う。
今回は二人だけで送り出すため、こうした自由もきいたのかもしれないと後になって思う。


病院を後にする時、最後に赤ちゃんを持たせてくれたSさん。
昨日の朝から今日まで働き通しだったのだろうか。
助産師も大変な職業だと思ったが、こうして最初から最後までSさんが対応してくださったお陰で、私も気持ちよく退院することができた。
初めてのお産。しかも死産に向かうという希望もない不安なお産の中、Sさんの存在が私の支えになった。
Sさんがいたから私は出産できたし、今もこうして元気でいられる。
いくらお礼を言ってもいい足りない気持ちの中、病院を後にした。

一度家に戻り、支度をすることにした。
夫が「四人で帰ってこれたね」なんて泣かせる事言うから、また泣いてしまう。
病院を出る時に双子の入った箱は布で包んでもらったけど、やっぱりお家でほどくことはできなかった。
心が壊れてしまいそうで。。。

涙がおさまったところでシャワーを浴びる。
昨晩はシャワー禁止だったため、すごくさっぱりした。
ぼんやりした眠気も吹き飛んだようだ。
コンビニで買ったお弁当でお昼を済ませ喪服に着替える。

六月に義叔父が亡くなった時に慌てて購入した喪服。
まさかこんなすぐに、また袖を通す事になるとは。。

ゆっくりする間もなく家を出る。

火葬場について、子どもたちを係の人に渡す。
受付で「別々に焼きますか。一緒に焼きますか。」と聞かれ、打ち合わせしていなくても二人の答えは決まっていた。
『一緒で』
火葬許可証を渡し、指示された部屋へ向かう。

さっきの係の人が立ってるすぐそばに、子どもたちがいた。
昨日と何一つ変わらない、小さい頭が見えた。
そこは祭壇になっているようで、係の人の合図でお焼香をし、祈りを捧げた。

双子はそのまま火葬されるという事だったのだが、少し待ってもらって、慌てて紙を取り出した。
それは、子宮口を開く処置をしていた二日の間に私が描いていた親子四人の似顔絵。
落書き程度のものだけど、夫は「上手だね」と褒めてくれた。
一人に一枚ずつ。
同じ絵を何枚も描けないので二枚コピーし、それに色鉛筆で色を塗っておいたのだ。

絵以外は何も書いていなかったので、『生まれてきてくれてありがとう』と。
それと、密かに考え、夫にも「ピッタリだね」と言ってもらった二人の名前をそれぞれ書いて。

棺とも言えない小さな段ボール箱に眠る二人の上に、名前を間違えないように一枚ずつ置いた。

その後二人は焼却釜?に入れられ、私たち二人で、焼却開始のスイッチを押した。


焼却が終わるまで時間があるのでと言って、待ち合いスペースに通されたが、私たち以外誰もいなかった。
広い待ち合い室の一面はガラス張りになっていて、そこから小さな庭が見えたのだが、庭の塀の上に見える空は、先ほどの雨が嘘のように輝いていた。
「最高の旅立ちの日だね」と夫婦でまた泣いた。

焼却が終わったという案内があったので、係の人についていくと、双子がいた跡はとても儚いものだった。
「小さい骨しか残ってませんが拾われますか」と聞かれ、もちろん拾った。
お箸とピンセットが用意されていたが、ピンセットでも強くつまむと壊れそうなくらいもろかった。
二人分でもわずかな骨を拾い、火葬場を後にした。

夫が、高いところに行こうと言って近くの山に連れて行ってくれた。
あいにく見晴らしの良い展望台への道は通行止めになってて行けなかったが、それでも景色のよい所に来て、気持ちも少しスッキリした。
「少しでも空に近いところでお見送りしないとね」と夫。
彼は彼なりに考えてここまで連れてきてくれたのだと思うと、また涙が出てくる。

今日で全てが終わった。
二人にしてあげれることの全てが終わった。


ようやく私は、少しの開放感に包まれたのだった。