館林 今年初の夏日


満天星躑躅
群馬県の館林市で25度2分まで 気温が上がり、 関東では今年初めて最高気温が25度以上の夏日になりました。
赤い椿は落花が始まり、今朝庭のドウダンツツジの気の早いグループが開花しました。
ドウダンは漢字で満天星とも書くらしいです。
越後三條大地震


2012年4月11日(水)記 4月14日一部訂正
越後三條大地震
吾れの郷里「小清水 災害 不思議 風聞記」に「文政11年11月12日 大地震 三條は一軒不残潰れ死人の数知れず」の記載がある。
良寛(1758~1831)様もこの大地震を体験している。燕の街はことごとく倒壊していたけれど子供たちが元気に凧揚げをしている様子を見ている。この時良寛71歳「天上大風」
良寛(1758~1831)様もこの大地震を体験している。燕の街はことごとく倒壊していたけれど子供たちが元気に凧揚げをしている様子を見ている。この時良寛71歳「天上大風」
注) 文政11年(1828) 184年前
参考資料弘化四年 善光寺地震


2012年4月11日(水)記
弘化四年 善光寺地震
吾れの郷里「小清水 災害 不思議 風聞記」に「弘化四年三月二十四日大地震 善光寺潰れ大火事 死人数万人」の記載がある。
注) 弘化四年 1847年 165年前
以下の参考資料によれば死者は約一万人
「地震発生時は善光寺のご開帳の最中であり、全国各地から多くの人が参詣に訪れていました。地震発生が夜の10時ころであったため、家屋の倒壊と火災による死者が多く、参詣者7千~8千のうち、生き残ったものは約1割といわれています」
注) 弘化四年 1847年 165年前
以下の参考資料によれば死者は約一万人
「地震発生時は善光寺のご開帳の最中であり、全国各地から多くの人が参詣に訪れていました。地震発生が夜の10時ころであったため、家屋の倒壊と火災による死者が多く、参詣者7千~8千のうち、生き残ったものは約1割といわれています」
参考資料
震度分布にもとづく江戸時代の4地震の震源域と規模の再検討(概報):1662年日向灘・1769年日向・豊後・1847年善光寺地震・1861年宮城の4地震について (PDF) 歴史地震研究会 歴史地震・第19号(2003)
http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_19/11-Matsuura.pdf
http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_19/11-Matsuura.pdf
薬師如来 薬師堂 由来記



薬師如来 薬師堂 由来記
之は何時の頃より祭り置きしや 小清水の東の山峯の岩穴の中に木像あり 即ち峯の薬師と申し伝えけるが建保二年(1214)二月打続く大風雨にて十一日の夕方に薬師の峯山崩れして小清水川を留めてその中は池の如く水満々として気毒千万の事に相成り候
人々寄集り堀取り致し漸く十六日に切り払い申し候に付き薬師如来を尋ねしに山崩れの小高き処に立ち給いてありける故 有難く存じ人々その処を掘り平均し杭を立て四方をふさぎ其の中に薬師如来の木像を入れ置き候
一、応永二十一年(1414) 其の年八月三右衞門次男三次郎と申す者分家に相成り渡世相励み次第に繁盛致しける
一、永禄七申年(1564)三次郎家内不残病死致し候えば本家三右衞門次男兵右衞門と申す者御座候に付き三次郎家跡相続致しける故兵右衞門は三度目の分家に相成り屋敷はもとより薬師地の傍に住居有りける故朝夕如来を信仰仕り候に付きその後慶長三戌年(1598)御上様御検地の砌り悉く御?し之有古跡は紛れ無候に付き薬師境内並びに御供料と申して田地御除被下置候故先々通り有難く拝作仕候事
薬師堂守 宮澤播磨太夫廣信謹拝
一、慶長八卯年(1633)兵右衞門信心にて村中の他力を頼み縦八尺横七尺の堂を建立仕候 依而堂地掃除御供料薬師免と申して田地御除置被下支配人兵右衞門と相定候 但し先年より兵右衞門信仰に付き斯如くに相成り候事にて兵右衞門倅多郎兵衞相続致し多郎兵衞の倅六兵衞 六兵衞 の倅又六兵衞 又六兵衞の倅源太夫男子なきため田島村平野治左衞門末男婿に迎え兵右衞門と申し相続仕候 之即ち金子三左衞門の分家なり
建保二年(1214)
応永二十一年(1414)
永禄七申年(1564)
慶長三戌年(1598)
慶長八卯年(1633)
NHKネットラジオ らじるらじる R1 昼のいこい
2011年3月12日(月)記
昨日の春の気配も吹き飛んでまた冬に逆戻りしてしまいました。
♪囲炉裏火はとろとろ 外は吹雪♪
iPhone4 WiFi NHKネットラジオ らじる★らじる R1 昼のいこい




