春夫への無期停学処分
この年(明治43年)8月20日から、新宮中学では東牟婁郡内の夏期講習会が開かれていて、小学教員50名余が参加、その多くが21日夜の寛らの学術講演会にも顔を見せていました。ちょうどその頃、内務省の地方自治刷新に基づき、知事以下の訓令の下で、内務省直属の講師生江孝之(なまえたかゆき)による地方改良と報徳に関する講和が、23日新宮中学で開かれています。生江はこのとき43歳、欧米の視察から帰り、内務省地方局の嘱託になったばかりでした。日露戦争後の世相に危機感をもった政府は、国民に勤倹節約と国体尊重とを徹底する目的で、前年の明治41年10月、教育勅語と共に明治期の二大国民教化策と言われる「戊申詔書(ぼしんしょうしょ)」を渙発、その全国的な普及が、さまざまな形で行われていたのです。経済と道徳との調和をめざした地方改良事業は、運動としても位置付けられ、青年団体等への教化も促すものだったのです。そういった内務省の趣旨に添うものとして、この時生江の講演も行われました。
生江はその後内務省を離れ、日本女子大学の社会事業学部創設に係わり、『社会事業綱要』や『日本基督教社会事業史』などの著作を刊行、やがて「日本社会事業の父」と呼ばれるようになってゆきます。
8月末か9月初めであろうか、参加者の1小学校教師から新宮中学校長宛てに投書が届けられ、それは社会主義者や虚無主義者と認められるような学生をそのまま放置しておくのかという内容で、校長の責任を厳しく追及するものでした。あきらかに春夫の演説を糾弾するものであったのです。学校側としても放置しておけなくなったのです。ちなみに、この投書の教員は後に和歌山県の視学官になっています。さらに4名の委員を選んで校長に直談判し、詰問したとも言います。寺内校長は、小学校の倫理教育の欠点を指摘する倫理的講話を彼ら小学校教員に成していた後だっただけに、なおさら申し開きが出来なかったでしょう。
時の校長寺内頴は、小学校校長の学校管理の在り方を問う『新令適用 学校管理法』(明治40年8月宝文館刊・41年1月訂正再販)を刊行しているほどで、日露戦争後の国家主義体制の強化を体現していただけに、校長の方でも、春夫らの文芸活動を軟弱なもの、他の生徒に悪影響を与えるものという平素の悪感情もあって、渡りに舟でもあつたと言います(森長英三郎著『禄亭大石誠之助』)。
寺内「学校管理法」
新宮中学の国漢の教諭小野芳彦に未刊の「小野日記」が遺されています。春夫の父豊太郎とも知己の間柄、郷土史家としても著名で、南方熊楠や柳田国男とも交信があり、遺著『熊野史』(昭和9年刊・48年復刻)も刊行されています。「小野日記」によって、春夫停学の詳細な日時が確定できます。期間は9月15日から10月22日までです。
9月11日、講演会の1件で職員会議、「同生の事は重ねて懇嘱を受け居りし所なりしにかヽることに立ち成しことまことに洪歎仕切なり」と記しています。12日春夫の母親が小野宅を訪問、種々相談しています。15日の職員会議で春夫の停学が正式に決まっています。特に期限は定められず、謹慎状態を見て判断するということであったのでしょう。この日は、翌日から始まる2学期の打ち合わせも行われています。
おそらく12日であろう、すぐに帰宅するように要請する電報が京都の春夫の下に発せられ、春夫はすぐさま帰宅の途に付いたようです。和歌山の母方の実家まで辿り着いた春夫でしたが、荒天によって船便が出ず、留め置かれて手間取ったようです。徒歩で熊野街道の藤代峠を越え、湯浅まで出て、漸く勝浦行きの航路に乗り合わせたのだと言うことです(「詩文半世紀」)。
そんななか、春夫は16日に帰宅し、直ちに小野宅を訪れ、今回の不始末を陳謝しています。学校側から正式に処分が言い渡されたのは、その前後でしょう。19日小野は佐藤宅を訪れ、春夫の謹慎ぶりの良さを記しています。
9月16日の始業式では、寺内校長は訓辞の中で、本人不在の中で春夫停学問題に触れ、「此憐れむべき青年をあんな奴と言ひ、馬鹿と言ひ、国賊と嘲つたそうだ。僕は之を聞いて余りにも意外の感にうたれ、若しや誤聞ではないかと多くの生徒を尋ねて見た所、全くそれに相違がないと言つた。」と、報じられています。(「牟婁新報」11月6日付・12日付「新宮中学生の停学事件に付校長寺内頴君の責任を問ふ」・「新宮町にて 門外閑人投」とあって、「門外閑人」とは熊野新報社主の宮本守中です)。これより先、「熊野新報」紙9月21日付巻頭には「中学生徒の停学処分に就て 熊歩」が載っていて、春夫停学問題の反響が、寺内校長への批判を増大させて広まっている様子が分かります。「中学生の停学処分素より事甚だ小なるに似るも、決して然らざるものあり、吾人の観る所を以てすれば、この一事は止しく今日中学教育の欠陥を暴露せるものと云ふも可なり。」と言います。
これらの騒動が春夫を巻き込んでいたとき、厳格な父豊太郎は一時熊野病院を畳んで北海道に移住していました。北海道十勝国中川郡止若(やむわっか)に仮寓、十弗に農場を経営していました。それは、明治31年に視察旅行をして、北海道での開拓を志し、明治40年にいったん熊野病院を閉鎖、41年6月からは青木眼科に貸していたりしましたが、居宅部分は春夫らが住んでいました。明治41年の夏季休暇を利用して、春夫は母と初めて北海道に渡り、父の農場を見学、帰りに奥州の松島にも遊んだことは、すでに述べた通りです。
豊太郎が正式に北海道移住を決め、出立のために小野芳彦に挨拶に訪れたのは、明治42年4月21日であったことは、「小野日記」から窺えます。「松魚(かつお)を持参」して来校したと言います。24日には小野は佐藤宅を訪れ礼を述べていますが、餞別でも託したのでしょうか。5月15日には北海道の十勝から豊太郎の葉書が届き、31日には小野が豊太郎に便りを認めています。このことから、豊太郎が新宮を離れたのは、4月末であり、やがて新宮に帰着するのは12月のことです。春夫の無期停学から、上京、新宮中学ストライキにかけての間は、教育熱心の父は不在で、母政代がその対処方に苦労したことが察せられます。小野は再三、事態の推移を北海道の豊太郎宛に書簡で知らせた模様で、11月4日付の豊太郎の書状には、「雪に香ありきくに色なきまか(が)きかな」「ふるふるときくいたはるやあきのくれ」の句が添えられていて、月末には降雪3寸ばかりになったと言います。
春夫は書いています。―「父が町会議員として実業派といわれていた町のボスたちの町政に反対した事のとばっちりがわたくしの停学処分に影響していたことを知って、わたくしは今までは知らなかった社会機構を知った。これらの事が、いよいよわたくしの文学志望の志を固めた。こうしてわたくしの文学者になるといった言葉が、さながらにウソから出たまことのように次第に実現してきた。」(「わが霊の遍歴」・昭和36年1月「読売新聞」)
春夫の停学問題は、また、町の政争の具になりかけていたのです。父豊太郎は「改革派」と目され、同じ医師仲間で「熊野新報」を主宰した宮本守中の立場に近かったはずです。