春夫の講演会登壇事件(二)
生田長江の日記の8月21日の条、「地酒に中てられたのか昼迄頭が上らず。夕方になつてもまだふらふらとして居る。がまんして夜の「大演説会」へ行く。」とあって、講師の到着が遅れて、春夫が急遽引っ張り出されたとする根拠にはなります。
長江は「ハイカラの精神を論ず」と題して話し、「僕の演説は半ばあたりから油が乗つた。ソオシアリストの大石君なぞが頻りと拍手して居た。」と記しています。「帰りに伊達医学士の処へ引張り込まれ、御馳走になる。」とあって、文学面にも精通していた伊達李俊に歓待されたようです。李俊は、下里(しもさと)の出身で東京帝大出の医師、今も残っている通称「角池(かくいけ)」のそばの赤レンガ塀の医院で開業していました。北海道立の増毛(ましげ)病院長から新宮へきての再開業でした。「明星」の同人、徳富蘆花等との交友もありました。しかし新宮での開業もうまくいかずに、半年後の2月ピストル自殺を図り、それが因で死去。享年33歳でした。偽の診断書を書いたなどと、大石誠之助らとの確執も噂されています。
徳富蘆花は「暁斎画譜(ぎょうさいがふ)」の一文(「みみずのたはこと」の「過去帳から」の章所収)で、李俊が蘆花に「暁斎画譜」を送ったらしく、そこで語られる安達(あだち)君は李俊がモデルです。蘆花は書いていますー「安達君は医学士で紀州の人であつた。紀州は蜜柑(みかん)と謀叛人(むほんにん)の本場である。」「安達君は此不穏(このふおん)な気の漂ふ国に生まれたのである。」と。あまりにも早い才能の喪失を嘆いています。
ちなみに、角池の先に庵主池(通称・丸池)があり、そこに3本の杉が立っていました。別に形が丸かったわけではありませんが、角池に対してそう呼ばれたらしく、遊廓への入口、後に蓮池ともいわれ、三本杉も丸池もどちらも昭和の初期に消滅しました。
やや、まわり道をしましたが、春夫の講演内容に戻ります。
春夫自身が述べる飛び入り演説とされる内容は、「それは「父と子」の中のパザロフのやうな感情を述べたものであつた。今考へて見ると、恥ずかしいやうな、浅薄な事だが、その中の言葉や思想が過激だといふので、学校から無期停学を命ぜられた。」(「恋、野心、芸術」・大正8年2月「文章倶楽部」)と述べています。「父と子」のパザロフとは、ロシアの作家ツルゲーネフの小説のバザロフと称される登場人物。「ニヒリスト」ということばがこの作品から始まったとも言われる問題作で、バザロフは、自然科学だけを信じて封建的な道徳や生活感情、さらには芸術までをも否定する人物として描かれています。その予期せぬ死に方に対しても、当時の青年たちを魅了した人物像として捉えられていたのです。
春夫の演説内容を、新聞記事は次のように伝えています。
「佐藤春夫君、中学時代に於ける学科成績を忌憚なく告白し、吾々の眼中には何物もない、唯其悲劇とするところは境遇にあらず性格である、而して世界に於ける学問は論理的遊戯として見て居る、そして吾人の信仰はといへば現実を以て充分ならずと雖も唯自己である、無理想無主義無目的で空虚である吾人は吾人の信ずるところへ向つて進むのみ、自己を知る者は自己なりと結論せしが言極端の嫌ひなきに非ずと雖も覇気に富みたり」(熊野新報・明治42年8月24日付)とあります。しかし聴衆の間には、こんな人の教育には困ったものだと呟くものがあったとコメントしています。
明治42年8月20日付熊野実業新聞に載った「学術大演説会」を報ずる広告。文中8月22日とあるが、8月21日に実施された。
また、成江醒庵は「学術演説会に於ける感想」を「熊野実業新聞」に連載していますが、春夫の演説については、「佐藤春夫氏の偽らざる告白は極めて大胆なるもので虚無主義の傾向はありながら尚ほどこかに何ものかを求めつヽある形跡が見えるのである。斯の如きは到底不健全なる思想たるを免れ得ないのではあるが決して不真面目なものといふことは出来ない。」と多少好意的に捉え、「新時代の思潮に触れた人間を旧思想によつて圧迫し或は指導せうとするから困るわけで新思想を以て指導すれば決して危険に陥いる様なことがないのである。」と述べています。
春夫は1年前の9月3日、新宮中学の校内談話会でも「近世の大問題」と題して、「近世の大問題たる自然主義に関し大家の説を紹介して最後に自然主義派の小説を読むの是非を解決せり」(「会誌」5号・明治42年3月)と語ったといいますから、この日の談話も一言で言うなら、「自然主義文学」への共鳴を語ったものと解釈できます。この言は春夫の日頃の主張とさして変わらないものであったでしょう。先述した「革命に近づける短歌」の主張にも通底するものがあります。しかしながら、文部大臣の訓令などによって、新宮中学でも社会主義的な作品は言うに及ばず、自然主義文学作品の一部が閲覧できない状況であったことからすれば、当時自然主義文学全般が「危険思想」とされかねない雰囲気ではあったのです。
一方でも、この学術講演会が、新宮警察署から執拗に講師の住所やら職業を、取り調べのような形で詰問されたといいますから(和貝夕潮の「熊野文壇の回顧」)、中学生春夫への風当たりも推して知るべしというところでしょう。これには、前年夏、社会主義者の幸徳秋水が、しばらく大石誠之助宅で静養した折、新宮警察署前の浄泉寺で公然と講演会が開かれたことへの、警戒の緩みとされたことも尾を引いているのでしょう。
「熊野夏期講演会」では、8月22日から4日間、午後6時から通称大寺で親しまれた瑞泉寺で開かれていますが、初日は「聴衆は細長い間の左右に列んだ真中にほんの幾人か散らばつているに過ぎない」状況だったと言います(「熊野実業新聞」明治42年8月24日付・石井柏亭の「新宮の一夜」の文)。生田長江は22日に「近代文芸としての自然主義」を論じて、1時間半ほど喋っています。それ以後は、どうだったのか、日記には23日には「与謝野君のあとで僕がやる。」とだけあって、表題は分かりません。この日、長江は「此土地にももうあきた。」と記し、「帰つて三階にねて居ると、例のホーカイ節の流しが通る。東京が恋しい。」とあります。春夫がこちらの夏期講演会に顔を出したという確証はないのですが、生田長江が西欧の文芸界との同時性としての自然主義を語るその論旨は、若い春夫らにも大きな影響を与えたことは間違いがありません。
春夫は明治41年の9月から「趣味」への投稿を開始し、「明星」には飽き足らないものを感じていたことはすでに述べました。11月「明星」は100号をもって終刊し、明らかにひとつの時代の終わりを実感させ、新しい自然主義や象徴主義と言われる、新文学の兆候が西欧の文学の影響などもあって、若者たちを捉え始めていました。そこには、「虚無主義」も影を落としていました。「自然主義」が「社会主義」などとともに一からげに「危険思想」として位置付ける考えも、思想界や教育界に跋扈(ばっこ)し、若者への啓蒙を強く主張する者達も、地方へも拡がり始めていたのです。「熊野実業新聞」は、明治41年9月28日付に「学校騒動取締方針」を掲げ、10月4日付には「文部と対学生策」と題して、9月29日の小松原文相の中等教員夏期講習修了式上の演説を掲載していました。