0222 虚実
ゆうすけくんちのお兄ちゃんの部屋にあるピラニアの水槽に落ちる夢を見た。
落ちるなら斜め向かいのアロワナの水槽の方が大きくて向いているだろ
とわけのわからないツッコみを抱きつつ起きる。
上空の青さこそ劣るものの室内の気温は確かに上がっていて
やはり汗をかいていた。腰から下のいわゆる脚全部を縦に持ち上げ
それを振り下ろす反動で起き上がる。家には誰もいない。いや、いる気配がしない。
むしろ窓から庭と畑をまたいだ向かいの家々にすらも人気が感じられない。
かろうじてセミは鳴いている。わたしはいったいどうしたものかと思い
少し慌ててコの字に折れ曲がった階段をおりる。昼間でもどうしても薄暗い廊下の先の
リビングもカーテンが閉まっていて暗い。
煩雑な冷蔵庫ドアの手前のポケットから麦茶を取り出してからグラスをとる。
そこで携帯のアラームが鳴って目を覚ます。
やはり脚全部を持ち上げてその振り下ろす反動で起き上がる。
車のエンジン音が聞こえる。隣の部屋の住人の階段を下りる(または上がる)音がする。
コの字の階段をおりていくと「おはよう」と言う人がいる。
0220 夏が死んだ
連日の午前3時起きからの敗戦はこたえる。
お盆とやらがやってきて代わりに夏は影をひそめてなんだかなぁと思う。
稲はもう風の通った痕跡を残さないほどに伸び、そして黄色身を帯びる。
せみは一時鳴くのをやめ一瞬夏がいくのを窓越しに眺める。
ここではないどこかを妄想していた1年前と
同じ場所にありながらすでにあそこではないことを想う。
僕らはいつだって旅ができる。居ながらにして。
それは音楽と、
それは映画と、
それは本と、
それは人と、
僕の外側にあるすべてが当たり前に僕と異なって
それに触れるたびにいつだってびりびりくる。
まったく誰も考え得なかった
だがそれはすでにそこにあった
田んぼの上をとんぼがいく。
クーラーが大袈裟な装置に見えてくる。
スイカがどこか異国の果物に思えてくる。
0210 いいのだ
久しぶりに、いつ起きてもいいのだ
そういう程度の自由さのなかで起きた。
昨日借りたCDがなかなかよくて
爆音でかけながらコーヒー豆を焙煎する。
すでに、というか起きてからずっと、いや寝ているときから、
いや、寝る前から、いやきっと生まれた時からずっと
汗をかいて生きてきて
今日もこうやって汗をかいて
自分の描いた風景をつくるべく
あれやこれやと働く。
働くだなんてみんなに申し訳ないほど
自分に似合っていない単語。
あんなにも練った店の構想が
朝令暮改よろしくどんどん姿をかえて
それでいてその都度、うんこれでよろしいと
自己満足のハードルをクリアできること
種をまく日々はまだ続けていくけれど
過去の種が育っているのを実感できる瞬間ってのも
少しずつ増えてきてこの210日をやってきてよかったと
素直にそう思う。
隣の芝はまだまだ青く輝いて見えるけど
以前のようにわざと視界からはずすのではなく
自ら飛び込んで行って生々しくジェラシーを抱いて
とぼとぼ帰ってくるほうが自分の力になることを知った。
こうしてたびたび他所へ身を置いて
各地の素敵な店越しにSATALAF COFFEEを眺めることを
続けていこうと思う。
0208 8月がくるんだって
もう8月が来るというのに世間では誰も騒いでいないけど
かの有名な8月がくるんだよ?
THE 夏。ですよ?
7月もこれほどまにで連日暑いと完璧な夏だけれど
8月の持つ夏感の鮮烈さは7月にはない。
その上、盆を過ぎると気分的にも海の家的にも
だいぶ収縮していくからこの前半2週間の短期間的季節、
それを盛夏と言うのか?
が毎年「あぁ生きてるな」という生の実感をもたらすわけで。
実家を建て替える前の古い家、小2の僕は豊野の祭りでゾイドを買ってもらって
居間の畳の上、テーブルの下にもぐりこんで夜通し親父とゾイド組み立ててた。
畳の跡が右のほっぺについて痛かった早朝のあの青白い外の光を僕は覚えている。
ほぼ完成しているゾイド、となりに寝ているお父さん。
今日、思い出したのはそんな8月のこと。
2012年の夏、夏が夏であるうちにもう一汗かいておこう。
8月のカレンダーをアップしておきます。
8月はお盆明け、20日(月)~26日(日)まで
丸々1週間お休みしまして長野の実家への帰省にかこつけて
あちこちぶらり旅してきますー。
0201 厚
濃密な日々。
20日(金)この土日にバケーションをとるSATALAF COFFEEに駆け込むように寄ってくれる方々。
例によってどんどん連鎖的に人がつながって互いが互いに自由に見つけた接点でゆるやかに関わりが生まれるのを目撃。
21日(土)Clara展を見に行く。10:00オープンのギャラリーに10:00に着いてするすると入っていく人々。村長その他に笑顔?(彼ら特有の笑顔)で迎えられしばしClara色の世界の住人となる。
14時前には米子へチェックインし、人生初の境線に乗り境港妖怪Jazzフェスティバルへ。
昨年より前目の席を確保してからビールなどを調達。港の風とゆっくり暮れていく日の光を左ほほに受けて乾杯。真っ青な空に雲は不在で行先の不明な飛行機とそれと見まがう鳥たちだけがそこに。Woong Sanのベティちゃん的色気に魅せられたりギターvsギターvsギターを煽るポンタ氏を見たりしながらスルスルとビールを胃袋へお迎えする。ステージ上の転換を見つつTOKUを待ちわびる嫁。前情報もなく迎えるグラントスチュワートカルテットにいかようの期待を持つべきかうんたらかんたら・・・とそこへ参るはなんと燻されたテナーサックスを抱えたMr.グラント。そのステージングのなんとおとなしいことか、およそNYでならしたとは想像しがたいがそれは視覚に限った話。目を閉じ空の青をまぶた越しに感じながら耳を傾ければtsとdsとbとpfの折り重なる饒舌さはそれ以上ない説得力であり、少々TOKUを合わすには・・・さりとてFly me to the moonなアクシデンタルな喜びはTOKUをもってしてである。
さていまごろ本題であるが、境港が壊れたのはこのあとである。
彼らはもともとそれを目的に来たのであろう。11回目のフェスにして初の参加、SOIL&"PIMP"SESSIONS
その名にあるセッションズとは僕らを含んでのことなはずで、それを多少強引に
それでいて引っ込み思案にはちょうどよい乱暴さで僕らを躍らせる。パイプ椅子に腰かけて耳だけ傾けたって彼らの音楽はダメで、だからってさっきみたく目を閉じ・・・ってのはもってのほかで
僕なんか半径1メートルは自分の空間として確保してなきゃ人の足踏んだりぶつかったり場合によっては結果なぐってしまったりしそうな音楽とのダンスで「踊く」=きく と書きたい。
1時間あった。そんな時間が1時間あるとどうなる知ってるかい?
「うそだ」って思うんだよ。だってどう考えたって15分。高速で動くと時間は早く流れる?んだっけ?
それだね。叫んだね。あんなにバカに笑ってる自分に途中で一瞬気が付いたけど
ぜんぶそこにあったね。
気取ってるばかりじゃだめで、バカばっかでもだめで、かっこ悪いだけじゃださいし、かっこつけれなきゃ男じゃないし、ああいうところで自分の扉を開けれるおれでよかった。
22日(日)マグロをお求めあそばせてそれを抱え鳥取へ戻る。暑さの盛りに荷物を車に詰め込んで賀露へ。テントひろげてシートひいて、ってごろごろするためにこんなに汗かいて、あんなに構想ねった海SATALAFのメモを忘れて○○も持ってくるの忘れて「あーあ」となるのもまぁごろごろするのには邪魔だからよけておいておいたけど。夕方4時じゃまだ子供じみたビーチだったけど、次第に日曜の夜らしい人気のまばらさが出ていて、夕日を眺め涼風受けて砂まみれになってごろ寝。チルアウト。近くの海でこんなにもチルアウトできるとは。大人を楽しむ。というセルフコンセプトの中で近所を遊ぶ力ってのはかなり大事で渋谷のフロアで揺れた夜もよかったけど境港の駐車場で揺れて最寄りのビーチであんな風にリラックスできる鳥取人でありたいもんですな。
今週末はお休みなさい!
22(日)は賀露のビーチでアイスコーヒーいれたりノンアルカクテルつくったりビール飲んだくれたりごろごろしてます!遊びに来たらもてなしますよー。
0197 筆をおく話
こんばんは。マスターと呼ばれて早3年半、どうもマスターです。
最近、写真の話をよくするので気にして写真を撮ることがにわかに増えたのですが、
やはりデジイチを構えるとシャッターを切ったあとにどうしても画面で画像を確認してしまう。
そのことが当たり前の行為としてあるのだけれど
ふっと僕はこれではクロージングがあいまいになってしまう。
と感じたわけです。
フィルムカメラを構える彼らの決意めいたシャッターを切るというひとつの作品のクロージング作業が
ぼくにはない。
油彩を描くとあるお方が作品を見せてくれて、
また描くようになった理由などあれこれ話を聞かせてくれて
またギャラリーでグループ展をしたなどの話を聞いて
写真のものとはまた異質のクロージング作業
それでいて写真よりもしかすると決意の試される
「筆をおく」という行為の難しさを勝手に感じました。
写真はある意味
カシャ
とした瞬間、作者の入り込む余地はなく
どうあがいてもそこに映し込めなかったものをあとで映すことはできない。
しかし、絵は
筆をおくという行為で初めて終わるから
作者の想いのまま。
つまりあと一筆描くも、描かぬもどちらも可能で
そのことを自由が効くなぁと感じるよりも
怖いなぁと思った次第です。
と言いつつ店を作る、いやいまだ創っていく作業は
こちらに似ているかも知れないなと思い・・・
絵は、延々描き続けるなんてことはしないだろうし
ましてや展覧会に出すと決めたら締切があるわけで
そこまでに「完成形」を用意しなければいけない。
なにを持って完成形とするのかはすべて作者次第で
そうやって考えていくと絵描きとはなんと潔い・・・
なんて話をしていたらEさんは「ちまたの絵は描き過ぎが多い」のだという
先生の言葉を教えてくれた。
筆をおけばよかったのに欲を出して筆を足す。
つまり潔くなりきれるかどうかが駄作と傑作をもしかすると隔てている
のか。
いずれにせよ、「仕上げる」という行為は
他者の目に見せるための作業とも言えるがその前に
自分自身への納得を欲しがるがために
結果、蛇足を付け足してしまうのか。
じつはこんなぼくにもえごころがあって
えごころっていってもそっちのえじゃないけど
ひみつにしてあちこちにらくがきやらめもがきやら
かきちらしているのだけれど
どれもしあげてないからみせれない。
だからこそ見せたらハッとさせる生々しい力を持った
非作品があるかも知れない。ないかも知れないけど。
こうやって他者評価をビビッて見せないやつもいれば
向上心持って恐れず他人に作品を見せる勇気ある若者もいる。
そういう人々との関わりはとても気持ちがよくて
応援したい気持ちとジェラシーとで
最近の僕はできている。
なにかを生み出そうとする人が好きだな。
あぁこうやって今日も蛇足に書き連ねるね。
よし、もう筆をおこう。
行け! みんな!
出せ! あなたを!
0193 フォト連絡
写真、あるいはカメラをキーワードに挙げて差し支えないほどに
ここ最近のSATALAFカウンター周りはにわかに
写真談義を主なメニューとしている。
が、しかし私が主導権を握れるほど
この広くて浅い引出しに雑にしまってある「写真」「カメラ」のフォルダは
とても薄っぺらく彼らの発するカメラ語には通訳が欲しいとも思っている。
正直、あるもので撮りたいのがぼくで
機材的なことやテクニック的なことは
僕のカメラ行為においてはさして重要でない
と申せば恰好がつくのだが
いかんせんそちらに回す気持ちとあれのゆとりがない。
だけれどことフレーミングという切り取り作業に関しては
大げさに言って人生に通ずる取捨選択の感性による行為であるから
好きだ。好きだなんて言ってみたけど言い過ぎた。
嫌いじゃない。
だけれどデジタルを主要機として使用していることで
その場その場のやり直し的ショットが延々と我がSDカードに残っていて
PC画面上で広げてみたっていったい自分は何がしたくてこうも変わり映えのない写真ばかりを
連射のごとく撮ってしまったんだろうと自己嫌悪。
その点、とある彼のシャッター音の何と覚悟を帯びた響き方。
あれこそ写真であるし、そうであるべきだし、そうであるはずだ。
さて、もろもろのことをひっさげて僕が言いたいのは
フィルムの覚悟でデジタルのシャッターを切れる男でありたい。
ということだ。
近頃「人」を撮りたくて
もしかするとその場合は先の覚悟は被写体にとって脅威であるかも知れないので
いかに左目で笑うかを思案しなくてはならない。
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「人」というテーマで6人ほどでフォトセッションをします。
各自上記(のような)アナログな心構えで(機材はデジタル可)
●シャッターの重みを感じること
●補正等撮影後に行わないこと
など踏まえ
28日までに撮影し現像、29日(日)に提出のこと。
0184 GLASHAUS
昨日、定休日を入れ替えて休みにして行ってきたのは姫路。
これでようやく3度目となる訪問先はとあるハーバーの近くのカフェ。
ギター&チェロのライブを観ることが主目的ではあるけれど
ここに身を置くことに来るたびに価値を感じていて
ライブ単品でもお腹いっぱいなのにその空間との掛け算的相乗効果たるや
わたしはものすごく感動してしまった。
夏の遅い夕暮れの、それでも暮れた的形の
いつまで降っていたのだろう雨はすでにやんでいるのに
どうしてかそこに確かに降る雨を見るような
クラシックギターとチェロの音を聴いた。
しんみりと叙情の間で僕はずっとそれでいて非連続的にあらゆる景色を描いては
その音の指さんとする絵を浮かべた。
その景色が消えかからないうちに雨降る街路樹を傘をさしながらとぼとぼ歩く
初老の男性が浮かんできて
しまいには曲と曲とをまたいでまでその彼に景色の続きを頼んだ。
ゴロー氏のつまびく指先でも、青弦氏の押しひく弓でもなく
その中点くらいに視線をやって
そのもっとずっとさきのおそらくそこはもう海なのだけど
そこには小さな町があって
平屋の家々の間にすくっと伸びる
それはそれは高い雲より突き出たマンションみたいなビル。
その屋上に彼は温室を建てて
それはナウシカが地下で秘密裏に育ててきた植物たちのごとき
植物たちを育てながらひとり暮らしているのだった。
彼のような人を想うとき
つまりこのような音を聴いたとき
ぼくたちはともすれば「悲しい」「せつない」と形容しがちだけれど
そんなんじゃないなと思った。
僕は音を奏でれるでもなく
絵を描けるでもなく
ただぼんやりとどこかの国の産地や街の山の風景を
好き勝手に描いてまぁまぁの珈琲を淹れることしかできないから
こうして言葉無駄に並べ書いて
伝えたいこと(とそれに近い気持ち)を伝えようとするしか
術がない。
悔しいと思う必要などないのかも知れないけれど・・・
例えばこんな僕が
いつかの彼なのかも知れない。
ほとんど無人になった車両から降りたとき
姫路の夜はシーズンレスな温度と湿度と風とにおいで
ぼくらを見送った。

