原子力産業新聞:落合恵子さんと有沢広巳さんの1974年新春放談 | 一撃筆殺仕事人:佐高信先生追っかけブログ

原子力産業新聞:落合恵子さんと有沢広巳さんの1974年新春放談

久しぶりのブログアップです。先月11月末の発売であった週刊新潮11月24日号、そこで週刊金曜日の編集委員を佐高さんらともに勤めておられる、落合恵子さん(元文化放送アナウンサーで現在は作家、絵本を出版しているクレヨンハウス代表としても大変有名な方で、テレビのコメンテイターでも時々出演されます。)そんな落合さんをあろうことか週刊新潮が攻撃してきました。

【ワイド】癒えない傷 消せない過去、と銘打った特集の六番目に、原発文化人を叩いても週刊金曜日「落合恵子」の消せない過去と題しましてページ半分にも満たない記事です。


佐高さんが中心となって週刊金曜日では原発の安全宣伝に協力した文化人やタレントを批判してきました。その文化人、タレント批判を再録した原発震災と銘打った週刊金曜日の特集号は完売、売り切れするなど大きな反響を呼びましたね。しかしそんな佐高さんでしたが、同じく週刊新潮に東京電力福島第二原子力発電所が協賛した富岡町の桜文大賞の審査員を務めていたことが報道されて、佐高さんもあわてて反論したこともありました。

http://ameblo.jp/sataka/entry-10863297335.html


さて、その週刊金曜日の同じく編集委員の落合恵子さんでしたが、もう三十五年以上前の1974年1月の原子力産業新聞という原子力業界紙に当時の原産会議(今の原産協会)の会長であった有沢広巳さんと対談していたというものでした。
まぁしかし記事を見てもいったいどのような対談であったのかぜんぜんわからないのですね。宮崎学さんも月刊Willで批判されていましたが、このごろの週刊誌の記者はネットでネタを集めるだけで根本の取材をせずに、いい加減な記事を書く人がとても多くなっているということです。
原産会議というのはwikipediaによると原子力平和利用の推進により国民経済と福祉社会の健全な発展に寄与することを目的に1956年に設立された社団法人でまぁ、原子力進の旗振り役を担った団体の一つなんでしょう。そういえば寺島実郎原発おじさんも大会で基調講演をしていらしたこともあったといいます。
その会長代行には佐高さんの好きな橋本愛之助さんの名前もあります。その橋本さんを1974年に引き継いだのが有沢広巳さん。でも新潮の記事では対談内容にはふれずに著名な原子力推進側の学者のコメントで原産会議の性格を言わせるだけ。

このバカ新潮(@橋下徹次期大阪市長)はせめて大宅壮一氏の資料館で記事でも探せばいいのにと思いまして少し検索してみたら、なんとネット上で読めるではないですか!

http://www.lib.jaif.or.jp/


本当に恥知らずだなと思いました。バカ新潮は。
そこで落合さんへの疑問を晴らすために一気に大サービスで対談を書き出してみました。


記事そのものの画像がこちらです。いや落合さんまだ文化放送のアナウンサーだったときで本当に初々しいですね。


一撃筆殺仕事人:佐高信先生追っかけブログ-原子力産業新聞 落合有沢対談


原子力産業新聞 第706号 昭和49年1月5日

新春放談

文化放送アナウンサー 落合恵子さん
原子力産業会議会長  有沢広巳氏


落合 明けましておめでとうございます。

有沢 おめでとうございます。

落合 石油問題に始まって、今の日本は難問が山積している状況のようですが、先生がお考えになられている1974年という年は、明るい年だとお思いになりますか。 
有沢 いや、そんな明るい感じはもてませんね。どえらい年じゃないでしようか。石油から起こってくる日本経済の混乱という状態が考えられそうですが、経済が混乱すると国民の生活も滅茶苦茶になりますね。私はそういうふうになりはしないかと非常に心配しているんですよ。

落合 私はその辺まったくの素人ですが、石油不足、エネルギー不足がこうなってくると、何か石油にかわるものを考えなくては、という感じが非常にあるんです。次に出てくるエネルギーは何なんでしょうか。

有沢 いろいろな新しいエネルギー源が考えられます。大陽熱の利用とか地熱発電だとか。こういう新しいエネルギー源はこれから開発しなければなりませんが、しかしこれを実際に実用化するには、まだ10年か、15年かかるでしょう。そう考えますと、いま盛んに開発が進んでいる原子力ですね。これは日本でも相当に技術が進んでいますし、現にもう200万KW位の発躍が原子力によって行なわれていますから、原子力をもっと開発する、ということが目前に迫っている問題としては、一番早い道じゃないかと、私は思っているんですよ。

落合 原子力という言葉を聞きますと、私なんかどうも放射能であるとか、イャーなことを思い浮かべてしまいますね。(笑)

有沢 そう、確かに原子力にはいやな面がある。広島のイメージを拭い去ることができないですからね。だけども、そういうものであると同時に、あの爆発というのは非常に大きなエネルギーなんですね。それを人間がコントロールして、熱だとか電気だとかに変えて人間の生活に利用しようとするのが、つまり原子力の平和利用ということなのです。

落合 科学とか、産業の発達について一方では非常に歓迎していて、また一方ではあまりにもすべてが機械化されてしまう、ということで危惧している面があるわけですね。

有沢 工業化とか、技術とかいうものは、たしかに有用性が一方にありますが、他方に危険、あるいは障害が起こる可能性がある。最近はテクノロジーアセスメントというようなことが言われていますね。技術というものについては、必ずメリットとデメリットの評価をしなきゃならん、ということです。原子力は最初から危険性がわかっているわけですよ。ところが農薬なんかは、初めはわからんもんだからやたらに使って、メリットばかり考えてデメリットに対する防御がなかったわけです。

落合 日本自体すべてそういうところがあるんじゃないでしょうか。非常に便利だからパッと飛びついて、あとで考えると……。車もそうですね。公害にしても何にしても……。原子力に関してその部分の心配はないわけですか。

有沢 原子力ははじめから危ないということをみんな知っていた。メリットがあることもわかっていたが、それを得るため悪いものを排除しなければいかんという課題が初めから出てきているわけですよ。そればかり研究してきたわけですが、ようやく押さえつけることができるようになったので、メリットが使えることになったわけです。

落合 これはまったく個人的な質問なんですが、機械化が進めば進むほど、どこかで人間性が失なわれていくのではないかという恐れはありませんか。

有沢 それはありましょう。

落合 そのへんはどういうふうにお考えになっていますか。

有沢 自己流の考えですが、機械というようなものは、結局自然の法則を人間が利用しているわけですよ。本当は人間は自然の法則に逆らうことはできない。たとえば、飛行機は引力の法則がある巡り、上にあがったものは必ず落ちるわけてすね。飛行機が発明されない間は、空を飛ぶことも、そういう欲望ももちえなかったわけです。ところが飛行機が発明されてからは空を飛べるようになった。これはたしかに人間の欲塑が非常に広がってきたことですよ。つまりいままで人聞は自然法則に従順に従って、自然界の動物として生きていたわけですが、自然の法則に反したり、打ち破るようなことをやり始めた。そこで人間の道徳観も違ってきた。
落合 非常に便利になったし、いろいろなメリットは受けたが、はたして本当にそれが人間にとって幸せだったのでしょうか。

有沢 たとえば原始人が密林の中で生活していたあの生活も、ぼくは幸福だと思うんです。ただ、彼らのもっている欲望は小さいものなのですよ。しかしその欲望が十分満たされているとすれば、その人は満足しているんじゃないでしょうか。

落合 そうなんでしょうね。

有沢 ところが欲望を知って、それが満たされない、ということになると、かえって不幸だということになりますね。つまり機械の発明によって、人間の欲望もますます広がってきまずから、広がった欲望が今度は満たされないことになると、不満も覚えてくるわけです。私は道徳観も同じようなものだと思っています。

落合 私は前に「現代人論」という本を読んだ時、その中に人間のひ弱さというのは産業革命から始まったんだ、というところがありまして、ああ、わかるなという気がしました。

有沢 (笑)そう言ってもいいでしょう。

落合 特に男性がひ弱になったわけは、自分の手をみずから汚して作ることをしなくなり、ボタンを押せば、すべてが作られるようになったからだ、幸いなことに女生は子供を生むという、まだ生産手段が残されている(笑)というのを読んで、これはおもしろい解釈だなと思ったんです。男性が機械化された故に精神的不能におちいった、というようなことは感じませんか。

有沢 産業革命以隆、技術の進歩と欲望の拡大によって、精神的な不幸も生れたといえます。一方、不幸と同時に可能性というものも生れたわけですが、その可能性が失敗することによる不満とか、失望とかというような精禅的な動揺は今日まで繰り返されているんじゃないですか。

落合 私は深夜放送をやっていて、若い人達との接触が多いんですが、よく最近の若者は云々ということを言われますね。最近の若者の無関心、無気力、無責任といった三無主義はどこから出てきたんでしょうか。彼ら言わせればすべて社会が悪いんだ、世の中がこうしたんだというふうに逃げちゃうんですが。

有沢 世の中が悪いなら悪いと言ってもいいんですよ。それじゃ世の中をよくしなくちゃいかん。それが自分のつとめだ、とそこまで考えないところがいけないんですよ。悪い世の中であれば、悪い世の中を変える気概がなくちゃ。

落合 戦前のいわゆる地下組織に自分も何らかの形でやらなければと感じた若者と、いま学生運動をしている若者達との間にギャップはありますか。

有沢 目的と言うか理論と言うか、それがいまの若い人にははっきりしていない。エネルギーを使うならば、もっと目的に沿った、理論に沿った使い方をすべきだと思いますね。エネルギーだけだったら昔よりあるいは激しく発散しているかもしれませんが、どうも精神的に貫いているものがなく、意志的なものが感じられない。

戦前は弾圧で拘置所へ


落合 先生のお宣いころ、ご自分の心に秘めた大志というのは、どんなことですか。

有沢 いや一(笑)。どうも。私はあんまり大志というものはなかったんですけれども、新聞記者になりたかった。新聞記者というものは、自分の思うことを書いて読者に知らすことができる。主張を伝えることができる。そう意味から偉大なる新聞記者になろうと思ったんです。だから学部の社会学科に入ろうと思ったんだけど、高箸学校で、この学科へ入るための必須科目を一科目とり忘れたから入れず(笑)、やむなく経済学部に入ったわけなんです。経済が志望じゃなかった。

落合 戦前、弾圧をお受けになったとかいうお話しですが。

有沢 東大の経済学部に入って助教授をしているとき、私の同僚に大森義太郎君とか向坂逸郎君がいたんです。これは私の親友でしたが、労農派というのを作って当時の無産運動の一翼を担っていたんです。フランスで戦争の危機とフアッショ化に抵抗するため、人民戦線という運動が起こったので労農派の連中もこの運動を日本でやろうという主張をした。このためつかまったんですが、その背後にぼくたちがいるというので、ぼくも一緒につかまったんです。
つかまったのが昭和13年の2月で、それから19年の11月まで裁判をしました。第一審は有罪でしたが、控訴審でついに無罪を獲得したんです。一年近く巣鴨の拘置所に拘置されていました。スリやドロポーもいましてね。友達になった。警察暑の留置場から巣鴨へ送られる時には、こよりで作ったワラジをもらいました。早く出られるというまじないなんだな。それから外に出てきても裁判中は視察人ということで、しょっちゅう警察の人がくるわけですよ。大学はそのころ休職でした。

落合 先生の新年の一年の計というのを最後にうかがいたいのですが。

有沢 二束のワラジをはくようで誠に申し訳けないが、一つは新しい体制になった原産の会長になったので、この原産の使命、課題を果たす、ということです。もう一つは個人的なことですが、原産の会長になる前から自分の好みに従った書物をつくろうと思って、少し原稿を書き始めていたんです。原産の会長になりましたから全部の時間を投入することはできないけれども、せめて夜9時以降は自分の時間にいただいて、今年中には一応まとめたいと思っています。これが今年の私の課題ですが落合さんの方は。

落合 私もまた本のほうをやりたいと思っていますので、新しい本を出していきたいと思っています。

有沢 ほう、木をお出しになりますか。

落合 はじめは詩やエッセイの方でしたが、六冊目から小説を書いていますので、少しづっそっちのほうをやっていきたいと考えています。

有沢 それは是非がんばって欲しいですね。

落合 有難うございます。