タイトルに挙げたのはいずれも2017年に配信が開始されたネットフリックスのオリジナル映画だ。
公式サイトに掲載された紹介文(ストーリー)を引用する。

『バーン・アウト』
元恋人の借金のかたに犯罪組織の麻薬配達人にされてしまったバイクレーサー。想像を絶するスリルに駆り立てられるように、次々と危険な任務をこなしていくが...。

『ホイールマン~逃亡者~』
犯罪者の逃走を請け負うドライバーが受けた奇妙な着信。それは、長く危険な一夜の幕開けだった。とっさの機転とハンドルさばきで、この危機を切り抜けられるか。

『ホイールマン~逃亡者~』の方には書かれていないが、実はこちらの主人公にも離婚した元妻とその子供がおり、主人公は彼女らのために奮闘することになる。
つまり、両作品の主人公は「元の恋人(妻)のために、持ち前のドライビングテクニックを活かして望まぬ仕事をするうちに危機に陥る」という点で共通している。

また、いずれの主人公も恋人や妻とは物語の開始時点で既に破局している点が興味深い。
破局の場面ははっきりと描かれる訳ではないため、観客は各登場人物の台詞の端々から過去に何があったか読み解くしかないが、概ね想像はできる。

日本の作品でも、木村拓哉が主人公の元レーサーを演じた2005年のドラマ『エンジン』で、過去にレーサーと付き合った女性が、「レーサーと付き合うと不幸になる理由」を説明する場面がある。
曰く、(正確な順番は忘れてしまったが)レーサーにとって女以上に自分自身や車のことが大切で、女は1位にはなれないのだと。

つまり、みんなモータースポーツ(運転)、車にのめり込み過ぎて人間関係、家庭生活が疎かになり、うまくいかなかったのだ。

『バーン・アウト』でも『ホイールマン~逃亡者~』でも、主人公は(映画の約束事として)最終的に自らの手で危機を乗り越える。

しかし、その後の主人公が見つめる先は2つの作品では真逆だ。
人の輪に戻れなくても外から優しく見つめるのか、人の輪に戻ってもその外に恋焦がれるのか。
エンジン音はそれほどまでに強い中毒となって、男の心を離さないのか。

ちなみに木村拓哉は現在、NISSANの先進技術を搭載した車のCMに出演している。
日本の自動車社会の末来を見つめているのだろう。

 

 

 

近年、韓国エンタメの発展と成果が本当に目覚ましい。

2020年には、映画では『パラサイト 半地下の家族』が第92回アカデミー賞の作品賞、監督賞、脚本賞、国際長編映画賞を総なめにし、音楽ではBTSの『Dynamite』が米ビルボード・チャートHot100で1位を受賞、更には第63回グラミー賞で最優秀ポップ・デュオ/グループ・パフォーマンス部門にノミネートされる等、次々と歴史的快挙を上げている。

筆者自身は高校生の時に友人の影響で東方神起にハマって以降(メンバーが5人いた2000年代後半の話)、K-POPのファンになった。
また、日本では2017年に公開された映画『アシュラ』(監督:キム・ソンス)を観てその面白さに衝撃を受け、それ以前の作品も以降の作品もほとんど外れなしという韓国映画に遅ればせながら魅了され始めた。
そんな訳で上記の歴史的快挙も一際感慨深い。

それだけではない。
とあるラジオ番組で紹介された韓国文学がこれまた面白いのだ。
今回はその映像作品について書く。
いずれも原作が素晴らしい2本で、タイトルにも書いた共通点を感じた映像作品だ(言葉はK DUB SHINEの引用)。

1つ目はネットフリックスのドラマ『保健教師アン・ウニョン』。原作はチョン・セランの小説『保健室のアン・ウニョン先生』(日本では斎藤真理子氏の訳で亜紀書房より出版)だ。
ちなみに同じ原作者、訳者、出版社の組み合わせの『フィフティ・ピープル』も面白いが、本記事のテーマとは異なるのでこれ以上は触れない。

 

 

ドラマのストーリーはほぼ原作の通りで、「特殊な霊能力のせいで、悪しきものが見えてしまう高校の保健教師。生徒たちを悪霊から守るべく、おもちゃの剣をふりかざし、さまざまな超常現象に立ち向かう。」(ネットフリックスの紹介文より)というもの。
なんといっても「悪しきもの」の映像化が愛くるしくて面白い。

ただ少し残念なのは、主役のアン・ウニョンを演じるチョン・ユミ、後に相棒であり恋仲となる漢文のホン・インピョ先生を演じるナム・ジュヒョクが普通の美男美女だということだ。
これでは結ばれると最初からわかりきっている美男美女がなんやかんやと勿体ぶって、最後になってようやく結ばれるという筆者のあまり好きではない方の韓国ドラマと変わらない。
アン・ウニョンは霊能力のせいで、ホン・インピョは足の障害のせいで(というよりそれに起因する劣等感のせいで)周囲に馴染めず、他に寄る辺ない2人が結ばれるという原作の胸が熱くなる要素が損なわれてしまっている。

それと関連して、ドラマのタイトルの「保健教師」という言葉もしっくりこない。
そもそもアン・ウニョンは生徒を教える教師の立場ではないし、霊能力方面で忙しくて他のこと(言葉遣いや人付き合い)は雑で、決して生徒の模範となるような存在でもない。
だが、保健室で傷病の生徒を治療したり、生徒のために奮闘したりする立派な人間だ。
その意味で、原作のタイトルである「保健室のアン・ウニョン先生」は、日本語の「センセー」同様、時には親しみやすさ、時には頼もしさを感じさせる正確な呼称だろう。

1つ目が長くなったが、もう1つは映画『82年生まれ、キム・ジヨン』だ。こちらの原作はチョ・ナムジュ著の同名小説(日本ではこれまた斎藤真理子氏の訳で筑摩書房より出版)で、主演は奇しくもアン・ウニョン役を演じたのと同じチョン・ユミだ。

 

 

本作は韓国の女性が人生のあらゆる場面でいかに抑圧されているかを見事に描き、原作は本国でベストセラーとなった。
日本で生まれ育った男である筆者にも思い当たる節が多々あり、原作を読んでも映画を観ても胸が痛い。

映画終盤の場面は原作のそれとは異なる。
むしろ、同じチョ・ナムジュの次作短編集『彼女の名前は』(日本語訳は小山内園子氏・すんみ氏、筑摩書房)のテーマと近い。

 

 

同書の訳者あとがきで紹介された原作者の言葉を借りるなら、映画版のキム・ジヨンは「半歩でも前に進もう」とするのだ。

これら2つの映像作品は、途中はともかくいずれも最後は見事だ。

アン・ウニョンの方は、望まぬ霊能力のせいで辛い目に遭い、一度はその力から目を背けようとするが、愛する者を救うために改めて力を受け入れるという選択をする。
そして生徒がその力を頼って保健室を訪れ、相談を持ち掛けると、アン・ウニョンは少し困ったような顔をして物語は幕を下ろす。
だが、ただ困っているだけのようには見えない。
その顔は映画『007 スカイフォール』の最後のジェームズ・ボンドの台詞を思い起こさせる。
大切なものをどれだけ失っても、言い渡された任務に対しボンドは”With pleasure.”と答えるのだ。「喜んで」と。

キム・ジヨンの方も、「半歩前に」踏み出したとはいえ、彼女を取り巻く環境が劇的に改善された訳ではない。
それでも、自分で自分の言葉を紡ぎ始めた背中は誇らしげだ。

アン・ウニョンの顔も、キム・ジヨンの背中も、「自分が自分であること」に対する誇りに満ち溢れているのだ。

最初の記事は映画『透明人間』(原題:THE INVISIBLE MAN/監督:リー・ワネル)について書こうと思う。


映画『透明人間』公式サイト
 

既に各方面で高い評価が確立された本作だが、筆者にとっても2020年に映画館で鑑賞した中で最も印象に残った作品だ。

それは2020年がどういう年だったかということにも関係している。

言うまでもなく、新型コロナウイルスの影響で映画館の営業停止、多くの作品の公開延期により、映画館での鑑賞本数が激減したばかりか、「コロナ前」と「コロナ後」では社会変化があまりにも大きく、もはや隔世の感がある。
したがって、「コロナ前」に鑑賞した『パラサイト 半地下の家族』、『フォードvsフェラーリ』、『ナイブス・アウト 名探偵と刃の館の秘密』等々、アカデミー賞受賞orノミネート級の名作や、その他の個人的に好みの作品群は、非常に楽しんだはずだが「2020年に鑑賞した」という気がしないのだ。

そんな中、日本では7月10日に公開された本作は、「コロナ後」に鑑賞した中でも特に思い入れが深い。
内容はタイトル通りのスリラーだが、姿が見えない敵(透明人間)に主人公が追い詰められ、周囲の理解も得られずに孤立していく様は、透明人間モノとしてまず普通に面白い。

また、映画において「同じセリフや描写が繰り返され、毎回違う意味を持つ」というのが個人的に好みなのだが、本作における「サプラーイズ」というセリフ、「主人公がベッドを出る」という描写の繰り返し、意味の変化が見事だった。
特に「主人公がベッドを出る」描写の方は、作中の冒頭と終盤で真逆の意味を持つと思いきや、最後まで鑑賞するとその意味解釈が正しかったのかすらわからなくなり、「真実は見えない」という本作のテーマの一つと密接に関係する。実にお見事。

更に個人的なこととして、2020年に武術にハマり始めた影響も大きい。
2019年の10月に柔術をベースにした護身術の道場に入り、前回の緊急事態宣言の最中にはオンライン稽古が心身の支えになったことから、それ以降は護身術の稽古にも武術関係の小説や映画にもドハマりした。

その状態で鑑賞した本作で気になったのは、「透明人間による物理的な暴力」についてだ。
既述の通り、本作における透明人間の恐ろしさは、主人公を周囲から孤立させることにある。
したがって、透明人間がいよいよ主人公を捕まえ、物理的な暴力を振るうシーンは、他のシーンのスリリングさに比べると(やられる方はたまったものじゃないだろうが)少し滑稽にすら見える。
なぜなら、物理的な暴力を振るうということは透明人間が主人公に触れるということであり、「相手から見られない」というアドバンテージを失い、その意味で「透明ではなくなる」ということだからだ。

この点は『ドント・ブリーズ』(監督:フェデ・アルバレス)とは対照的だ。
こちらの作品では、調子こいた若者達が盲目の老人の家に強盗に入るが、老人の並外れた聴力と戦闘技術、恐ろしい執念で若者達がひどい目に遭わされる。
若者達が持つアドバンテージは「相手(盲目の老人)から見られない」という一点に限られるが、老人に捕まり殴られるシーンではそれすらも喪失してしまい、いよいよ絶望的だ。

筆者の通う道場でも、組み付いてくる相手から視覚を遮断した状態でエスケープする鍛錬を行っている。
ここでも「常に相手に触れて居場所を確かめること」、「視覚以外の情報を用いること」を指導される。
相手が見えなくても生き残れる術だ。

ただし、『透明人間』における透明人間は、主人公を仕留めることには失敗するが、銃を持った屈強な警官隊は素手で、一瞬で無力化してしまう。
実は超強いのだ。
戦って生き残るためには五感を鍛えるだけでは不充分だろう。
まだまだ己を鍛えねば。