関西帰りで、まだ関西弁が抜けへんのや。失礼!

失礼ついでに、せっかくの「美味しい話」やと云うんに、写真は無く
既に胃の腑の中、話だけ聞いてください。

今日は東京は一日冷たい雨。友達が二人来訪。

一人は早朝築地の場内市場での買い物帰り。素人さんは普通は場外
なのだが、彼は素人ながら常に場内のみ。
殻つきのホタテを見せ、此処は火も無いし調理器具も無いので夜、
携帯コンロと網を持って焼きに来てくれるという。

一人は「灯」時代からの親友。
嘱託ながらまだ65までは頑張るとサラリーマンやってる。
この間の日曜に、せっかくの休みを俺んとこに見舞いにと言って
くれたのだが、関西から帰ったばかりで体調不良と断った。
詫びの電話に答え、「もう良いんか、仕事切り上げて行くよ!」と。

デパ地下で銀座スエヒロの豪華!牛肉弁当を買って来てくれてゴチ
になる。厚切りのサーロインはまだ温かく、ボリュームたっぷり!
お互いの腹を見比べながら、「現役で歌ってる頃はいくら食っても
太らへんかったのになぁ・・・」とさすってみる。
値段に釣り合った味わい軟らかさか?いまいちやな、が彼の評価。

彼が関わっているいるうたごえ喫茶に、ギターの山本クンを明日
ゲストに頼んである。

2009/11/18 (水)
 
ゲストサロン RUI ルイ

〒 188-0011 東京都西東京市田無2-16-22
電話 050-1425-5727(夜間)

http://www.geocities.jp/salonrui/

うたごえリーダー:(元西武新宿駅前「灯」)近藤 卓ほか
ゲスト:フォークシンガー&シンガーソングライター山本さとし
   「ヒロシマの有る国で」ほか

19:00~うたごえ喫茶 19:00~22:00頃
参加費 1,200円



13日。
13:00過ぎ、品川乗車の新幹線で大阪に向かう。

翌日昼からの尼崎労働福祉会館「いきいきシルバーコンサート」
にゲスト出演する為に、ギタリストの山本クンと先乗りした。
障害者用コンパートメント(正式には多目的室という)を利用
するので電話予約し、当日品川駅のみどりの窓口でチケットを
受け取る手筈が、出札係のいかにも不慣れそうな若い男性駅員
がモタモタしていて20分以上待たされ、危うく乗り遅れるところ
だった。
旅の始まりがこんな調子では・・・と、ふと危惧を抱く。
山手線内はJR東日本だが、新幹線品川駅はJR東海の管轄区間と
云う事で、分割民営化による連携の悪さと不便を実感した。

お昼は車中食になるので、久しぶりの駅弁が楽しみだった。
こんなトラブルが無ければもっとゆっくり選べたのだがと云い
ながら、同行の山本クンが駅構内でこんな駅弁とプレミアム
モルツを買い求めてきた。

J's_cafeへようこそ!-出陣弁当 (2)J's_cafeへようこそ!-出陣弁当

写真でご覧いただくコレが我々の昼食、「21世紀 出陣弁当」。
かつて行われた「21世紀私の食べたい駅弁コンテスト」で、大人
の部のグランプリを受賞したという。21世紀への門出を、戦国
時代の出陣に見立てたものらしい。

さっそくコノ縁起弁当のふたを開け、我々も家康の東軍になった
つもりで、コンサートの成功を祈っていざ、出陣じゃぁ!大阪へ。

値段相応にひと品一品の食材の吟味もよく、つまみとしてPモルツ
との相性も好かった。ご飯は赤飯と山菜おこわのおにぎりで、3個。
十分だった。

器は、昔の行李仕立てが新しい。これを家へのお土産にするという
山本クン、俺の分もあげて二人のお嬢さんに。弁当でなくとも何か
適当な入れ物に使えそうだ。


友達が死んだ!

10月12日、「チャリティーコンサートを終えて」をブログにUPした日。
そのコンサートの縁の下の力持ちとして、俺を支えてくれていた練馬の
H君が死んだ。
発見されたのは1週間後の19日、新宿区に暮らすと云う3人兄弟の兄。

$J's_cafeへようこそ!-20090125 廣田善夫くん

ちょうど1年前の夏に出会い、ほんの1年ちょっとの付き合いにしか
過ぎなかったが、お互い60過ぎてから得た友人で“分かりあえる”
格別のものがあった。

「俺の爺さんが信州・綿引村(現長野市)の出身で・・・」と云うのが
口癖で、「信州」という言葉に思い入れがひとしお感じられた。

父は某国立大学の教授。母は、クリスチャンで源氏や枕草子を原文で
読むのが趣味、百人一首も諳んじていたという教養人だったという。
そんなお母さん子だった彼は、3人兄弟で兄と姉の末っ子。兄は東大
から総務官僚に。

彼は都立明正高校(現 蘆花高校)から青山学院大学へ。その頃から
「俺、人と話すのが苦手なんだ」と引き籠りに。

結局卒業後も就職せずに、人と会話しなくて済む大日本印刷や大日本
インキで日雇いの(その日に日給を手にできる)仕事を。
そして、原発性胆汁性肝硬変という難病を抱えながら深夜から明け方
まで働いて朝から酒に浸り、30代半ばからアルコール依存症とも闘っ
てきたという。

父親譲りだという囲碁・将棋は有段者で、麻雀もかなりやったらしい。
単に受け売りの知識をひけらかしたりでなく、好きな詩や俳句を諳ん
じていたりと教養の深さを時折り垣間見せたりもした。

この夏の初め、3か月ほど三鷹病院に入院すると言って俺の好きな
ターキーの12年物と自分用に黒霧のワンカップを持ってきた。
俺も飲まないからと云って止めさせようとしたんだが聞かず、結局
ベロベロになって自転車で帰って行った。
心配した通り、中村橋の自宅に帰るまでに都立家政と鷺宮駅近くの
スナックをはしごした揚句、眼鏡は壊すは時計は無くすは右の額から
頬にかけて擦り傷つくり、右小指を骨折してボロボロになってたどり
着いたという。
そして、この日が彼と飲んだ最初で最後の日となった。

8月に入って週末ごとの帰宅が許されるようになり、また顔を出して
くれるようになった。睡眠薬か何かを大量投与されて一日中ただ
ボーッとしてる毎日、テレビはあっても観ていられず本も読めない。
集中して何かやるという事が出来ないらしい。
そして悲しいことに、こういった弱者が集団生活してる病院の中で
又、弱い者いじめが横行しているという事実。
8月26日に退院するまでの1カ月は特に酷いいじめにあっていたよう
で、鬱状態にあったようだ。

退院後、依存症患者の集まり「断酒会」にも顔出していたようだが
なじめなかったみたいだ。
「じんサン、アル中って一人では決して抜け出せないんだよ」
「薬漬けで日がな一日ボーッとしていて仕事にも就けず、結局は
三鷹病院のようなところを死ぬまで出たり入ったりしてなくちゃなら
ないんだよ」
「アル中には自殺者が多いんだよ」・・・

そして10月に入った頃から、「唾が出ないんだよ」と会うたびに嘆く
ようになった。満足に食事が摂れなくなり、げっそりと痩せた。
唾が・・と云いながら、それでもポテトチップスやポッキーや柿の種
のようなしょうもないもんばっかり食べていて、俺の言う事はなか
なか聞いてくれず、大きく口をあけると外れちゃうんだよ云いながら、
すっとぼけた表情で入れ歯を見せた。

いつも真っ直ぐ見詰めてくる瞳が印象的だった。まじめでシャイで、
女の子と付き合ったこと無いんだって恥ずかしそうにつぶやいた。

かつて親友だった奴の受け売りだが、「友達って共犯関係なんだよ!」
なんでも気にせず言って来いよ頼ってくれってあんなに言ってたのに、
友達がいもなく独りで逝ってしまった。

パソコンまでは行けなかったが同じAuなら教えられるからと、携帯は
持たせることができた。EメールもCメールも使いこなせるようになった
が、アドレス帳は兄と義兄と俺だけで、それ以上ついに増えることは
なかった。

「10/8 11:58 メール有難う。今日は最悪だ。また伺います。H」
これが彼から来た最後のCメール。
「10/8 12:03 最悪かぁ・・体調はどうにもならんが、気持は引き
立てることはできる。気楽に気楽に。じん」と俺。

そして10/10のお昼頃、これから行くからと電話来たきりぷっつりと
連絡が途絶えた。
まさか・・・?とは思ったが、近くに行きつけの主治医もいることだし
最悪入院してしまったかと、25日まで毎日メール送って消息を聞いて
いた。
食えなくて眠れなくて眠剤が徐々に増えていったのか?緩やかな自死
かも知れない。

残念だ、悔しいよ。Stand by me 居てくれるだけで安らいだのに。
残されたわずかの時間、彼の分まで熱く濃く生き切りたいと誓う。