今も月に一度は妻とカラオケを楽しむ。思えば、最初に二人で会った日も食事の後にカラオケに行った。
彼女の家の近くに「JOYSOUND」というカラオケ・チェーンがあり店長と顔馴染みになるほど通ったが、いつの間にか店は取り壊されて今はカー・ディーラーになった。
サービス精神旺盛だった店長の明るい顔が思い浮かぶが、人も町並みも移り変って行くものだ。
思い起こせば、カラオケで最初に歌った曲は内山田洋とクールファイブの「そして神戸」。1980年頃のことで、場所は京都・高野のスナック「ユレイカ」だった。
大学卒業後、東京で働いていた頃はメインの遊び場が吉祥寺になった。配属された課の同僚にも、ご多分に漏れず飲み助が多く、吉祥寺で飲んでは南口のパブ「ひまつぶし」で歌った。
当時流行っていた曲は、あみんの「待つわ」、中村雅俊の「恋人も濡れる街角」、海援隊の「贈る言葉」などがあったが、デビューしたばかり中森明菜の大ファンが同期にいて、彼の下手な「少女A」を何度か聴かされたことを思い出す。
そんな中、私がよく歌ったのは薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」。何処か寂しいメロディーが好きだった。その一方で、前述の「そして神戸」や松村和子の「帰ってこいよ」など演歌を歌うこともあり、新入社員時代の不協和音な心情を反映していたように思われる。
「ひまつぶし」には、システム部に配属されてからも何度かお世話になったが、随分昔に店は無くなったようである。
郷里九州へのUターンを決意した1989年頃によく歌ったのが長渕剛の「とんぼ」。東京生活に疲れ果てた自らの境遇を曲の歌詞に重ね合わせて、酒を浴びながら吠えるように歌った。この曲は博多・中洲のスナックでも十八番のように歌うことになった。
1990年代に入り、カラオケの舞台はパブ/スナックから「カラオケ・ボックス」へと移行することになる。(続く)
