英語遊歩道(その38)-「雪中行軍」-真冬の京都・滋賀/彦根の旅① | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

兼ねて計画していた大学のプチ同窓会(雀友会)滋賀県彦根に住む娘の家族に会うために、この極寒の中、京都・彦根へ2泊3日の旅行を挙行した。

 

2月8日(土)

前日からの雪が気になっていたが、当日の朝は雪も無く在来線(日豊本線)は通常運転新幹線は小倉を定刻通りに発車した。だが山口県に入ると車窓から見えるのは雪景色へと変わった。広島までの区間は若干の徐行運転を行うらしい。

 

結局、京都には30分遅れで到着、ホテルに荷物を預け地下鉄烏丸線で今出川へ。烏丸今出川から203系統のバス京大農学部前で降り、待合わせ場所の喫茶「進々堂」には13:45くらいに到着した。私が一番乗りだった。

 

一人また一人とメンバーが集まってきた。麻雀の面子が集まるような感じである。「進々堂」には15:00くらいまで居ただろうか。それから5人で農学部キャンパスへ。農学部/理学部のキャンパスは学生時代最も縁遠かった場所である。とりあえず農学部グラウンドまで行って農学部キャンパスを後にした。

 

 

本学構内には北東の通用門から入った。工学部各棟の側を通って法経済学部本館へ。法経済学部本館を巡って時計台に出た。本学を抜けて教養部(現・総合人間学部)構内へ。それにしても政治的な立て看板(タテカン)は全く無い。随分変わったものである。

 

教養部の建物も見覚えのないものばかりだった。構内を北から南に縦断して吉田寮まで来た。当時の風情のままである。今もまだ立ち退き問題でもめているようだが、当時吉田寮に住んでいたクラスメートの話では、寮食は飯30円、味噌汁10円で食べ放題・飲み放題だった。昼食を寮で食べていた学生もいたらしい。

 

 

 

 

 

南西の通用門から教養部を出て東大路通百万遍に向かって北上した。居酒屋は百万遍出町柳の間にあった。「隠れ家琢磨」という店である。第一勧銀/百万遍支店は無くなりみずほ銀行のATMだけが残っていた。よく行った(負けた)パチンコ屋「モナコ」は無くなり2階が「サイゼリア」になっていた。

 

居酒屋では美味しい料理を肴に思い出話に花が咲いた。学生時代の様々な思い出が蘇った。麻雀の話や数少ない恋の話(恋バナ)「勉強した」といった話はほとんど出てこなかった。結局大学受験の話に行きついた。ボーダーライン等を細かく分析していた友人もいた。でもやはり一番勉強したのは入学より前だ

 

店を出て出町柳から京阪電車で三条へ。ここで1名が帰宅、残る4人で先斗町まで歩きあるバーへ入った。そこで場違いの日本酒を飲みながら話の続きとなった。

 

 

2月9日(日)午前

友人からの携帯電話で目が覚めた。8:30頃だった。「今から南禅寺まで行って哲学の道を歩くぞ!ホテルまで迎えに行くから準備しろ!」と言う。眠さと二日酔いの中、シャワーを浴びてそれなりに人心地が着いた。

 

南禅寺へはタクシーで。少し雪が残る山門を抜けて境内を散策した。南禅寺から銀閣寺へ向かう哲学の道をひたすら北へと進んだ。薄く積もった雪を踏みしめながら歩いた。永観堂に立ち寄ったり、また友人たちの当時の下宿の跡地を確認しながらの行軍となった。昔あったお洒落な喫茶「若王子」は無くなり、いくつかの新しいカフェがオープンしていた。

 

 

 

途中、鹿ケ谷通りに入り、喫茶「バンビ」で休憩・軽食をとった。「バンビ」は徹マン明けによくモーニングを食べた喫茶店だった。当時はジューク・ボックスがあったがリクエストした記憶はない。レイアウトも随分変わっていた。銀閣寺道で2名と別れた。彼らは出町柳まで歩くらしい。私ともう1名でタクシーで京都駅に向かった。

 

 

京都駅で友人と別れまたひとりになった。これから雪深い彦根へと向かわなければならない。まだまだ前途多難である。

 

※なお肖像権の関連で個人が特定できる画像は掲載していません。また一部の画像は拝借しています。