自叙伝(その13)-ノスタルジア-「四人組」と街の風景 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

Articleでは高校を離れて少し外の世界に目を転じてみたい。

 

高校2年時の春の遠足は、門司港⇒火の山公園というコースだった。関門橋の橋脚のたもとに集合し、関門トンネル人道を歩いて下関へ。火の山にも歩いて登った。

 

その帰り、門司港から小倉まで普通は国鉄(JR)か路面電車を使うが、電車が満員だったのか、私とRとYの3人、3号線沿いを小倉まで歩いた記憶がある。麗らかな春の夕刻、何を話して歩いたのか?それはさすがに覚えていない。

 

通学は、私がバス乗り継ぎ、Rは国鉄、Yは路面電車(または徒歩)、Sは自転車と全員違っていた。帰りはRと南小倉駅まで歩き、それからバスということが多かった。南小倉駅近くの書店やうどん屋に立ち寄ることもあった。どちらも今は残っていない。

 

街に出るときは「下到津」電停から路面電車が普通だった。電停のそばにも学参を多く置く書店があり時々覗いたが、こちらも今は無くなっている。

 

中間・期末などのテストが終わった最終日、いつも四人組でボーリングに行った。場所は大門の「小倉スターレーン」。電車を大門で降りて踏切を渡ったところにあった。ボーリングはSが一番上手かった。この「小倉スターレーン」、今はパチンコ屋になっている。

 

街での待合わせは、銀天街「ナガリ書店」2階の学参コーナーが多かった。駅前の祇園太鼓ということもたまにあった。

 

「ナガリ書店」で私とYでRを何時間か待った記憶がある。Rはコンタクト・レンズを取り行くと言ったが、どうも眼の手術(?)をしたらしい。学参など見ながら時間を潰したと思うが、携帯などない当時、こんなこともたまにはあった。書店での情景が今も何となく目に浮かぶ。

 

京町銀天街に「マヤ」という喫茶店があった。卒業してからが多かったが、ここも待合わせ場所の一つだった。仄暗い店内、黒い石造りのテーブル、濃い目のウィンナー・コーヒー、また通り沿いのガラス窓の中にアンティークの焙煎機が置かれていた。大人の雰囲気を感じさせる空間でよく長話をした。予備校の頃、模擬試験後にYと出来栄えや進路などを語り合ったりもした。

 

大学の頃、「マヤ」が小倉駅前にもでき、そちらにも何度か行った。だが私が東京にいた頃、銀天街の火災で京町「マヤ」が閉店、その後駅前「マヤ」も閉店した。随分経って、京町「マヤ」が昔と違った白いイメージで再オープンしたが、あまり長くは続かなかった。「マヤ」は私の父母が若かりし頃にも通った店であり、親子二代でお世話になったことになる。

 

関門橋の開通が197311月、西小倉駅の開設が197412月、そして「ひかりは西へ」の山陽新幹線の全線開通が19753月と、我々の高校時代、北九州市が大きく変わりつつあった。この開通したばかりの山陽新幹線で我々は修学旅行に行くことになった。

 

山陽新幹線の開通により、九州の玄関口は小倉から博多へと移動した。これにより大手企業の多くが九州支店を北九州市から福岡市に移転、あるいは福岡市に新設するようになった。

 

工業都市として栄えた北九州市の人口が、商業都市の福岡市に逆転されたのは、私が大学へ進学した1978年のことであった。