Vol.71【音楽 「THE ALFEE」②】の続きです。

 前回は、彼らが「田辺エージェンシー」に所属して、1974年の8月に「夏しぐれ」という曲でデビューしたところまで話しました。

 

 

 坂崎幸之助さんの言葉を引用すれば、「ぼくらは何か過大評価されていて、絶対30万枚は売れるなんて言われていた」そうです。ところが、デビュー曲の「夏しぐれ」は全くの不発で、「ああ、自分たちは違う場所にはまり込んだんじゃないか」と思ったそうです。その頃、彼ら4人(その頃アルフィーは4人でした。三宅康夫さんは1975年に脱退)は「ギンザNOW」というテレビ番組にレギュラーで出演していましたが、この番組に出演するのは、アイドルスターを目指している新人タレントばかりで、彼らもアイドル路線に組み込まれていたというわけです。そして、ルックス的に高見沢俊彦さんが一番アイドル性があるということで、白いスーツを着てハンドマイクで歌わされていたそうです。活動も、コンサートなどは全くなく、テレビの仕事もアイドルを集めた特番などばかりでした。

 

 翌年の1975年5月に2枚目のシングル「青春の記憶」をリリースしましたが、これも鳴かず飛ばず。その後、同じ年の7月にアルバム「青春の記憶」をリリースしましたが、結局自分たちの作った曲は3曲しか収録されず、「適当にそこらの作品を集めた、出すことが恥ずかしいようなものになった」そうです(このアルバムは、後に「GREENHORN」と改題されています。私は、個人的には、このアルバムが好きです)。

 

 

 

 練習もろくにせず、「何か違う」と思いながら流されていた彼らに転機が訪れます。その頃、あの「ガロ」のマネージャーをやっていた「関口登」さん(以下「関口さん」と言います)が、ガロが解散同然の状態になったため、アルフィーのマネージメントをしてくれることになったのです。ガロについては、私のもう一つのブログ「つぶやきのひろぽん」Vol.14【「ガロ」 きらめくような才能を持ちながら・・】でお話ししていますので、よろしかったら見てください。

https://ameblo.jp/hiroshi-9105/

 関口さんに「お前らの夢をどうにかして叶えてあげたい」と言われた彼らは、心機一転、本気で頑張る決意をして、「かまやつひろし」さんや「研ナオコ」さんのバックバンドとして、真剣に音楽と向き合い出します。ところが、大きな事件が起こります。1975年12月にリリースが予定されていた3枚目のシングル「府中捕物控」が、発売開始直前に突然発売中止となったのです(この曲は、今でもたまに彼らのライブで歌われるそうですね)。高見沢さんの言葉を借りると「新生アルフィーとなった気分で、そのスタートを賭けた一枚だった。怒りと情けなさと寂しさでいっぱいだった」とのことです。しかし高見沢さんは考えたそうです。「結局、ぼくらが何も持っていないからだ、実績もなければ自分たちのオリジナルもない、つまり何の主義主張もないからだ」。それから、高見沢さんは、猛烈に歌を作り始めるようになったそうです。

 

 

 この事件をきっかけに、彼らは所属していた音楽事務所をやめて、本当にゼロの状態に戻ります。アルフィーの3人と関口さんだけになって、暗中模索を始めます。高見沢さんは言っていました。「あの時、もし関口さんがいなかったら、もうガタガタになっていたんじゃないかという気がします。ぼくらが一番つらかった時期に、僕ら以上の情熱をもって、新しい道を切り開いてくれたのは関口さんだった。だからその後のアルフィーは3人ではなくて、関口さんを含めた4人なんです」。

 

 

※ ツイッターに画像を投稿しました(2023.4.21)。

https://twitter.com/sasurai_hiropon

 

(次回に続く→時期は未定)