今回から全19回(予定)に分けて、「新幹線接続特急」の歴史をたどる連載を開始いたします。今年は東海道新幹線東京-新大阪間開業60周年の節目に当たりますが、東海道新幹線の歴史回顧記事は既に10年前、「ひかりました・こだましました半世紀」のタイトルでアップしておりますので、今回の60周年では「新幹線接続特急」にスポットを当て、新幹線60年の歴史を、いわば裏側から眺めてみようという発想です。

ここで「新幹線接続特急」という言葉の定義をしておく必要があります。
当連載では、「新幹線接続特急」について「新幹線接続を主な使命として設定された特急列車」と定義します。新幹線接続が主な使命ですから、湖西線開業前の「雷鳥」とか、上越新幹線開業時の「北越」、あるいは北陸新幹線金沢開業時の「サンダーバード」「しらさぎ」のように、「独自の使命がある列車が結果として新幹線接続の任を負っているもの」は含まないことになります。
そしてそのような「新幹線接続を主な使命として設定された列車」は、当然のことながら昭和39(1964)年の東海道新幹線開業に伴うダイヤ改正と共に登場します。これら列車に関しては、既に当ブログでも何度か言及しているところであり、重複するところもあろうかと思いますが、その点はご容赦ください。

☆つばめ  新大阪-博多
☆は と  新大阪-博多
★みどり  新大阪-熊本・大分
☆しおじ  新大阪-下関

★ゆうなぎ 新大阪-宇野

これらのうち☆が純然たる新設列車であり、★が以前の運転区間を変更したもの。
★のうち「みどり」は、この改正を期して熊本・大分行きに変更し、その上で下りが東京を出る朝一番の「ひかり」を受け、上りが最終の東京行き「ひかり」に接続するダイヤとされました。以前の記事では☆のみ、つまり「つばめ」「はと」「しおじ」のみを「新幹線接続特急」としていましたが、「みどり」もその中に含めてよいと思います。
ともあれ、「ひかり」と「みどり」の乗り継ぎにより、東京から熊本・大分への日着が可能となりました。
現在は東京-九州間の移動は航空機が主流となり、丸1日をかけて列車で移動するなどは、愛好家かよほどの航空機嫌い以外には考えられませんが、当時は航空需要も限られており、1000kmを超える移動でも鉄道が選択される傾向が強かったので、「東京から日着圏!」というのも、それなりのニュースバリューがあったものです。

★のもう一つの列車「ゆうなぎ」は、改正前の「富士」の東京-新大阪間をカットして新幹線に接続するダイヤに建て替えたもので、同時に四国連絡の任務を負っていました。
「つばめ」「はと」はいずれも、下りは新大阪を昼過ぎに出て夜に博多に到着、上りは博多を朝出て新大阪に夕方到着するダイヤとなっており、「ひかり」との接続で東京-博多間が最速で下り12時間30分(『ひかり』→『つばめ』乗り継ぎ)、上り13時間50分(『はと』→『ひかり』乗り継ぎ)となりました。これも新幹線開業前には、どうしても1夜行を挟む必要があったものですが、新幹線の開業とこれら「新幹線接続特急」により、博多まで日着が可能になりました。
そして「しおじ」は、下りが新大阪を午後遅い時間に出発、上りが下関を早朝に出発して新幹線と接続を取る列車となっています。

以上が5列車のラインナップですが、使用車両は「みどり」が80系気動車の他は、「つばめ」「はと」「しおじ」「ゆうなぎ」がいずれも151系電車。151系電車を使う3列車は、改正前まで東海道を走っていた編成をそのまま転用したもので、編成も東海道時代のパーラーカー+一等車3両を維持した豪華編成のままでした。このあたりは、「新幹線接続特急」とはいえども、流石は当時の「特別急行」の面目躍如という感があります。
ここで一つの疑問が生じます。151系は直流専用のはずですが、どうやって九州島内に乗り入れたのかと。
これは、下関-門司-博多間を機関車に牽引させることで乗り入れを果たしたものです。そのための車両の改造は、ダイヤ改正以前から着手されており、改造が完了した車両は車号を赤く塗装して表示していました。そして両方の先頭車は連結器カバーが外されて常時連結器が剝き出しにされ、優美な風貌がやや損なわれています。
さらに自走できない区間でのサービス電源を確保するため、151系編成と機関車との間に電源車が用意されました。これは当時増備が進んでいた421系のモハ420のうち、3両に対応機器を搭載したもので、形式は「サヤ420」。151系が自走できない区間では、サヤ420に搭載したパンタグラフから電気を取り、編成全体のサービス電源を確保しています。
さてそうなると、次なる疑問は、何故そうまでして151系を乗り入れさせたかということです。当時既に交直両用の特急型車両の開発は進められていたものの、ダイヤ改正には間に合いませんでした。また、この車両(481系)を投入して運転を始める予定だった「雷鳥」(大阪-富山)と「しらさぎ」(名古屋-富山)も、ダイヤ改正当日からの運転開始はかなわず、同年12月25日からの運転とされました。これは、481系が初めての交直両用の特急型電車となることから、初期故障を懸念して足の短い北陸系統での使用実績を積み重ねることにしたのだと思われます。
ともあれ、このような「九州島内を客車列車として運転する」という形態は、翌年10月に「つばめ」「はと」が481系に置き換えられるまで続きました。

東海道時代の豪華編成を維持したまま山陽に転じ、初の「新幹線接続特急」の任に就いた151系ですが、東海道とは異なり山陽区間では優等車の需要が低かったため、一等車の利用率の低さが問題になってきます。中でも、東海道時代の白眉「パーラーカー」は、四国連絡の使命も持つ「ゆうなぎ」はそこそこだったものの、山陽区間では連日空気を運ぶ有様。勿論国鉄当局も手を拱いていたわけではなく、パーラーカー乗車に必要な「特別車両料金」を従来の1650円から500円へと、7割以上の大幅値下げを断行したものの、それでも利用率が好転することはありませんでした。「パーラーカー」ではない一般の一等車も後に減車されることになり、東海道時代の3両が2両に減らされました。
また151系は、九州島内を自走できない他に、パワー不足も問題となりました。というのは、山陽本線には瀬野-八本松間の通称「瀬野八」といわれる急勾配区間があり、これが151系の主電動機の出力では登り切れないことから、上り勾配となる上り列車については、補助機関車(EF61)の力を借りることになりました。ただしEF61も両数が限られていたため、何らかの事情で予備機が払底したときはSLを補助機関車にすることも取り決められていたようですが、流石にこれは実現しないままだったようです。
「瀬野八」における補助機関車の連結は、151系が主電動機を換装してパワーアップする(181系に改称)まで続きました。「つばめ」「はと」は、前述したとおり481系への置き換えで補助機関車の連結は解消されましたが、その当時は151系の主電動機換装がまだ全車に及んでいなかったため、「しおじ」の補助機関車連結が解消されるのは、主電動機換装が完了する昭和41(1966)年8月のことでした。

次回は、「新幹線接続特急」としては初となる夜行特急「あかつき」の登場と、それと同時に導入された乗継割引の制度について取り上げます。

その2(№6227.)に続く