その7(№5551.)から続く

先週穴を開けてしまったので、今週は2本連続アップといたします。なお、いただいたコメントは明日以降順次返信いたしますので、もうしばらくお待ちください。

 

では本題参りましょう。

今回は中京圏に初登場したものの、開業15年であえなく廃線になってしまった、かわいそうな路線を取り上げます。
今回取り上げるのは、愛知県の第三セクター・桃花台新交通が建設し運営していた桃花台線。「桃花台」の「桃」からの連想ということか、「ピーチライナー」の愛称で親しまれました。

桃花台線の計画そのものは非常に古く、昭和46(1971)年には既に、小牧-高蔵寺間を結ぶ中量ガイドウェイシステムによる公共交通路線が検討されています。この計画は、同年のうちに「桃花台ニュータウン」の開発計画が具体化すると、昭和49(1974)年にはAGTの導入を決定しています。路線開業を見越し、早くも昭和55(1980)年には小牧駅-桃花台ニュータウン間で「代行バス」の運転を開始します。これは、初の実用AGTとなった「ポートライナー」に1年先んじています。桃花台線は以前に取り上げた、千葉の山万ユーカリが丘線と同じ、中央案内軌条式の「VONA」を採用していますが、これは「VONA」が同じ愛知県の日本車輛製造が開発したシステムであったことの他に、計画が古かったこともあるのかもしれません。もっと後になって計画が立案されていたら、「ポートライナー」などのような側方案内式になったかもしれません。
「代行バス」が走り出したことで、すぐにもAGTが走り出しそうな勢いでしたが、現実のAGTの建設は遅れ、着工はその2年後の昭和57(1982)年、開業は着工から実に9年を経過した平成3(1991)年3月と、遅れに遅れました。
この間、桃花台ニュータウンの計画人口が何度かにわたって下方修正され、それに伴って桃花台線の需要予測も下方修正されました。それでも開業前には、1日当たり2万人の利用者数を見込んでいたのですが、これは他にライバルとなる交通機関を想定しない数字。後にこの需要予測も、杜撰を通り越して恣意的だったのではないかと、批判の的になります。

ともあれ、平成3年3月25日、中京圏初のAGT・桃花台新交通桃花台線が開業します。開業に先立って愛称も公募され、その結果「桃」にちなんだ「ピーチライナー」となりました。
実際に開業した路線は、極端なまでにコストダウンが図られていました。車両(100系)は一方向のみの運転となることを前提に、一方の先頭にしか運転台を設けず、なおかつ客用扉は進行方向右側のみに設けるという徹底ぶり。それでは折返しはどうやっていたのかといえば、両端の小牧・桃花台東にはラケット状のループ線が設けられ、それで折り返していました。これはいわば、鉄道模型のエンドレスをぐるぐる回っているのと同じことですが、流石にそれでは出入庫の際に支障することから、通常最後部となる側には、簡易運転台が設けられていました(通常は封印されている)。そして有人駅は、小牧と桃花台センターの2駅のみ。
それでも将来的には高蔵寺までの延伸を考えていたようで、桃花台東駅の終端ループが分岐側に設けられていた(真ん中に高蔵寺に向かって伸びる本線を通す計画だった)のですが、それも利用者が伸び悩んだことで、計画は凍結。その後路線そのものが廃止の憂き目に遭いました。

桃花台線は前述のとおり、1日当たり2万人の利用を見込んだのですが、実際にはそれにはるかに及ばない2000人前後。つまり当初予測の1割しか利用がなかったわけで、これでは経営難に陥るのも無理はありません。
このように、桃花台線の利用が伸びなかったのは、以下の理由があります。

1 名鉄小牧線にのみ接続していたこと
桃花台線開業当時の名鉄小牧線は、上飯田が終点でした。しかしこの上飯田駅は、どの路線とも接続していない駅で(以前は市電が接続して栄・名古屋駅方面へ向かえたのだが、市電の廃止で孤立してしまった)、名古屋市中心部に向かうには、地下鉄名城線の平安通まで歩くかバスを利用するしかなく、利便性の面で極めて劣っていました。そのため、そもそも桃花台線を使って名古屋市中心部へ向かおうというお客は少なかったのです。
この状況は、平成15(2003)年に地下鉄上飯田線が開業し、小牧線の列車が平安通まで直通するようになったことで多少の改善を見ますが、それでも栄・名古屋駅方面へ向かうには乗り換えが不可避であるばかりか、名古屋駅へ向かう際にはJR高蔵寺・春日井駅経由に比べ運賃が高額になるため、桃花台線のお客を増やす起爆剤とはなりえませんでした。
これが小牧線ではなく犬山線に接続するか、あるいは最初から高蔵寺から桃花台ニュータウンを目指せば、少しは違ったのかもしれませんが、何故小牧線との接続に固執したのでしょうか。

2 競合交通機関の需要を全く想定していなかったこと
桃花台線の開業前の需要予測がもはや杜撰というレベルを通り越している、という話は前述したとおりですが、信じがたいことに、需要予測にあたって、競合交通機関の需要を全く想定していなかったことが明らかになりました。実際には桃花台ニュータウンの住民は、自家用車でJRの春日井へ向かい、そこから名古屋駅方面を目指す人が多かったようで、桃花台線の利用は伸びないままでした。そこへさらに、栄・名古屋駅方面へ直行する高速バス路線まで開設されてしまっては、もはや名鉄小牧線にしか接続していない桃花台線は、全く当てにされない路線に成り下がってしまいました。
実際、地元で桃花台線の存廃に関する論議が沸き起こったときも、桃花台ニュータウンの住民は、桃花台線の廃止には反対するものの、では運営会社としての桃花台新交通に対して、廃止反対あるいは職員の激励の電話などをしたかといえば、そういう電話は殆どなかったそうです。このころになると、揶揄と自虐を込めて、桃花台線を「ピーチライナー」ではなく「ピンチライナー」と呼ぶ人も増えてきました。

3 桃花台ニュータウンの入居世帯数が伸び悩んだこと
恐らく桃花台線の利用が伸び悩んだ最大の理由がこれ。当初計画では5万人の入居を見込んだそうですが、実際にはその半分くらいの人口にとどまったということです。これでは、そもそもの母数が少ないのですから、そりゃ利用が伸びないのは当たり前。それなら地べたで乗り降りでき、便によっては名古屋市中心部へ直行できるバスの方がありがたい、となるのも無理はありません。

桃花台新交通も決して手をこまねいていたわけではなく、徹底した合理化や利用促進策などを打ち出したものの、どうしても収益が増えず、結局平成18(2006)年9月30日、桃花台線は廃止されてしまいました。沖縄海洋博などのアトラクション的な乗り物を別にすれば、AGT路線では初めての廃線となりました。
廃線後は高架橋の撤去が問題となり、当初撤去にも費用が掛かるとして撤去には消極的だったのですが、結局愛知県の旗振りで撤去する方針に転換され、順次撤去が進められています。その他にも、国からは補助金の返還を求められているという話もあり、最後までグダグダだったという印象しかありません。車両は同じ方式を採用している山万ユーカリが丘線に譲渡される計画もありましたが、車両のサイズが異なることと、ユーカリが丘線の車両と桃花台線の仕様の違いから改造が不可避であることなどが仇になり、その計画は実現しないままでした。

桃花台新交通の蹉跌は、そのまま公共交通の整備の在り方に大きな問題提起をなしたといえます。杜撰すぎる需要予測は勿論、路線選定の問題、そしてそもそも、あの程度の輸送需要にはAGTは過大な投資だったのではないかという問題もあるように思われます。管理人は安易な「公共事業悪玉論」に与する気はありませんが、もしかしたら桃花台新交通の蹉跌は、そのような論を補強する一事例になってしまったかもしれません。

次回は、一部区間が「地下鉄」として建設された、広島のAGTを取り上げます。

その9(№5560.)へ続く