その3(№5133.)から続く

まず初めにお詫び。
前回、昭和50(1975)年の新幹線博多開業でもグリーン車は大人気…と述べましたが、実はあれは誤りでした。というのは、国鉄当局は新幹線博多開業を機にグリーン料金を見直し、600kmまで・800kmまで・801km以上の距離区分を追加し、601km以上の利用の場合には大幅な値上げになってしまったからです。前回の記事は、該当箇所を削除しております。大変失礼いたしました。

というわけで、特急・急行の長距離利用が割高になってしまったグリーン車ですが、これは、従来が安すぎたことの反動であり、あくまで適正化を図った結果といえなくもありません。
しかし、グリーン料金の高騰は、その後はとどまるところを知らず続いていきます。
まず、新幹線博多開業から1年も経過しない、昭和50年11月には600kmまでが約2倍、それ以上の距離が約1.7倍に値上がりしました。この値上げ幅も相当なものですが、極めつけは翌年の昭和51(1976)年11月に断行された、運賃・料金の大幅値上げ。このときの値上げは運賃・料金とも50%という、到底正気の沙汰とは思えない値上げ幅でしたが、グリーン車に限って言えば、僅か2年で4倍にも跳ね上がってしまいました。おまけに運賃や特急・急行料金も値上げされたものですから、これらの度重なる値上げによって、グリーン車の利用率が激減してしまいました。
特に酷かったのは、非電化区間を走る急行列車のグリーン車。これらの列車には、必ずと言ってよいほどグリーン車が連結されていたものですが、これらの利用がほとんどなくなり、閑古鳥が鳴く状態となります。この大幅値上げから4年後の昭和55(1980)年、四国内では急行列車のグリーン車を格下げして普通車指定席として運用、後に九州でも追随する動きが出るのですが、このような前代未聞の「グリーン車格下げ」の背景には、このような大幅値上げによる乗客の急激な逸走の問題がありました。
そして勿論、減ったのはグリーン車の利用だけではありません。鉄道(国鉄)の利用そのものが、雪崩を打って逸走する現象が起きました。所謂「国鉄離れ」という現象がそれです。この「国鉄離れ」によって、東京~九州・北海道や関西~北海道といった長距離の移動は軒並み航空機に逃げ、そこまでいかない短中距離の移動は自家用車に逃げ、国鉄の利用は壊滅的に減少しました。利用客の急激な逸走に、流石に国鉄当局も危機感を覚えたようで、昭和52(1977)年には昭和51年の値上げ前の水準に戻す運賃・料金の改定を行っていますが、既に時代は航空機による大量輸送が緒につきつつあり、かつ道路の整備も緒についてきた時代。そのような中では、一度逸走した乗客が戻るわけもなく、利用は回復しないままでした。
もっとも、「国鉄離れ」とはいっても地域差があり、北海道・東北・北陸・四国ではそれほどでもなかったのに対し、特に落ち込みが酷かったのが東海・山陽・九州だったそうです。あの東海道新幹線でも、山陽新幹線へ直通する列車を減らし、新大阪止まりの列車を増やすなどの合理化を図ったこともありました。
その後、国鉄の運賃・料金の値上げは民営化直前まで続きましたが、いくら物価との関係での値上げが必要とはいえ、運賃・料金とも50%もの値上げは、流石に常軌を逸したものでしょう。これについて、管理人が考えるのは、「何故国鉄当局は『値上げによって逸走するであろう乗客』を考慮に入れなかったのか?」ということです。確かに値上げを行えば収益は増えますが、それには前提があって、その前提は「利用が値上げ前と変わらない場合」。仮に値上げをしたとしても、それによって逸走する乗客が出れば、値上げの効果は逸走する乗客の分だけ減殺されることになります。さらに乗客の逸走が大きければ、値上げの効果が完全になくなる、それどころか逆に収益が減少することすらあり得ます。当時の国鉄当局の幹部たちが、素人の管理人が考えて思い浮かぶ疑問に思い至らなかったのかは甚だ疑問に思うところで、流石にそこまで硬直的なわけはないと思いたいのですが、思い至っても「組織の論理」で言い出せなかったのか、はたまた「陸の王者」の間違ったプライドから抜け出られなかったのか。そのいずれか、あるいは両方かもしれません。

勿論、国鉄当局も拱手傍観していたわけではなく、「ゴー・サン・トオ」こと昭和53(1978)年10月2日実施のダイヤ改正では、全ての在来線特急列車に自由席を設ける、指定席を1カ月前からの売り出しに統一するなど、利用促進の施策を打ち出しました。その一方では料金収入の増加を図ったものか、急行列車の特急への格上げが多く見られ、当時の鉄道趣味界では「特急誘導」であり実質的な値上げだという批判も、少なからず見られたものです。
そしてこの2年後、昭和55年10月1日に実施されたダイヤ改正では、「ゴー・サン・トオ」でとられた施策がさらに深度化され、急行列車の特急格上げが増えました。一方、終戦直後の一時期を除いては初めて、旅客列車の総運転キロ数が減少に転じたことでも注目されました。総運転列車キロ数の減少は「ゴー・サン・トオ」から既に始まっていたものの、このとき減少したのは貨物列車のそれで、旅客列車の減少はありませんでした。それが2年後には、旅客列車でも減少が顕著となっています。
この間、グリーン車に関しては、毎年のように行われる値上げを挟みながらも、設備のレベルアップもサービスの充実も図られず、全く進歩のない状態が続いていました。そのことを示す動きが、急行列車のグリーン車の連結が減少したこと。これは電車よりも客車・気動車列車で顕著で、客車ではスロ54やスロ62・スロフ62、気動車ではキハ58系のグリーン車であるキロ28・キロ58が、上記2回のダイヤ改正を経て、それぞれ大量に余剰になりました。後にこれらの車は、客車ではスロ54が退役したほかは「お座敷列車」に改造されて団体用に活路を見出し、キロ28・58は郵便・荷物用気動車に改造されることになります。また、関西圏では東海道・山陽線の快速電車からグリーン車がなくなるという、寂しい変化もありました。これも利用率の低迷が大きな原因ですが、もう一つの原因は、前年に「新快速」用に投入された117系と、113系のグリーン車、特にサロ110の0番代の回転クロスシートというアコモデーションが大差がなく、グリーン料金を徴収する意味づけと正当性が怪しくなったということもありました。

そのような動きは、東北・上越新幹線の開業を控えた昭和56(1981)年から徐々に変わり始めてきます。
まずこの年、現在まで続くヒット商品となる「フルムーン夫婦グリーンパス」、通称「フルムーンパス」が発売されました。これは利用が低迷しているグリーン車の利用の促進を図り、同時に生活に余裕が出てきた年配夫婦の旅行を促進しようという狙いの商品だったのですが、この商品は当時大御所俳優だった上原謙・高峰三枝子両氏出演のテレビCMの放映とも相まって、空前の大ヒットを記録しました。「フルムーン」は新婚旅行が「ハネムーン」と呼ばれているのに対比した、熟年夫婦の旅行ですが、この言葉はかつてほどではないにしても、現在でもそれなりに人口に膾炙するほどのインパクトを残しています。
そしてその1年後、今度は30代以上の女性、「熟女」と称するにはやや失礼な気もする年齢層の女性、今で言う「女子旅」での利用をターゲットにした「ナイスミディパス」も発売、こちらもそれなりのヒットを記録します。しかし「フルムーン」とは異なり、こちらはJR移行後しばらくの間発売されていたものの、現在では発売されていないようです。
さらに車両面での動きが、東北・上越新幹線用車両の登場。この車両・200系のグリーン車215形は、濃い赤茶色のモケットを貼ったどっしりしたリクライニングシートに、壁をマホガニー調とするなど、あたかも一流企業の役員室か応接室と見まがうような、重厚なテイストでまとめられました。勿論、どっしりした座席は座り心地も快適そのもの。これまで停滞気味だったグリーン車の、久しぶりの進歩を示すものとして、当時の鉄道趣味界では大いに注目されたものです。

このあと、国鉄は分割・民営化に向かって突き進みますが、他方では日本経済は空前の好景気を謳歌するようになります。所謂「バブル」ですが、このころはその「バブル」へと突入する前夜。
次回と次々回で2回に分け、その「バブル」への突入に伴う、グリーン車の復権の流れを見ていくことにいたします。次回はグリーン車の設備面、次々回はサービス面などを取り上げます。

その5(№5149.)に続く