その6(№5075.)から続く

今回は予告編とは内容を違え、目蒲線(目黒線)の改良の過程を見ていくことにいたします。

混雑の激しくなっていた東横線について、混雑緩和のために目蒲線をバイパスルートとして活用しようという計画は、既に昭和の末期から動き始めていました。昭和60(1985)年の都市交通審議会答申で、6号線(都営三田線)及び7号線(南北線)と目蒲線との相互直通運転が計画され、しかもそれが日吉方面への延伸を予定されている段階で、その計画は明らかになったといえます。
東急では、その計画に基づき、手始めに昭和63(1988)年11月、日吉駅の改築に着手しました。日吉駅は2面4線の副本線と折返し設備を持つ東横線の拠点駅で、日比谷線直通列車はこの駅で折り返すダイヤが組まれていましたが、改良工事着手を機に、日比谷線直通列車の折返し駅を菊名に変更しました。これは改良工事に伴い、日吉駅の折返し線が使えなくなるためです。
日吉駅の改良工事は、一連の工事のトップを切って平成3(1991)年に竣工し、同時に日比谷線直通列車の折返し駅も日吉駅に戻されています。ただし朝晩のみは菊名折返し列車が残存しました。

目蒲線の線形の変更は、東横線と並行している田園調布-多摩川園(当時)間を利用して行われることになりました。田園調布-日吉間は方向別複々線となるため、田園調布駅で目蒲線を東横線が挟む線形に変更、併せて駅設備も地下化されることになりました。そして多摩川園駅は、同駅と蒲田駅の間を折り返すための専用ホームを地下に設け、高架の駅は方向別複々線となりましたが、多摩川園駅の地下ホームに通じる連絡線を田園調布駅から伸ばすことになりました。このため、田園調布-多摩川園間は、東横線の複々線と連絡線の複線が並行する3複線となり、阪急電鉄の十三-梅田間に次いで、私鉄で2例目の3複線区間となりました。
同様に、大井町線との接続駅である大岡山駅についても、改良が図られました。具体的には田園調布駅と同様、駅設備を地下化して目蒲線が外側・大井町線が内側という方面別配線に変更(同一方向同一ホーム乗り換えが可能)、さらに大井町線の大井町寄りに折返し線を設けることとされました。この折返し線は、東横線の車両が長津田の車両工場へ出入りする際に使われるほか、大井町線の急行列車の折り返しに使われる計画がありました。当時は東横線のみならず、田園都市線の混雑が激化しており、特にそれが旧新玉川線区間で顕著であったことから、田園都市線の混雑緩和のため、大井町線の二子玉川-大岡山間に急行列車を運転して、目黒方面への列車と接続させるという計画です。この計画は最終的に、大岡山折返しではなく大井町発着と改められ、急行が大井町線全線で運転されることになりました(大井町線での急行運転開始は平成20(2008)年3月)。
田園調布-多摩川園間の改良工事は昭和63(1988)年に着手され、2年後には田園調布駅西口の特徴ある駅舎が解体されました。前後しますが、着工と同じころ、沿線にあった「田園コロシアム」が工事に支障するとして、廃止されています。田園コロシアムといえば、力道山時代からプロレスでも幾多の名勝負が繰り広げられた会場でしたが、まさかこの工事を理由に消えるとは、管理人は夢にも思いませんでした。
このあたりは日本を代表する高級住宅街であることから、夜間の工事が不可能であり、営業列車を動かしながらの工事となったため、かなりの難工事となりました。線路の切り替えも数十回に及んでいます。それでも工事は順調に進み、平成6(1994)年6月には多摩川園駅の改良が完成、田園調布駅も同じ年の11月27日に目蒲線ホーム、翌平成7(1995)年6月1日に東横線下り、同年12月に上りの、それぞれ地下化が完成しています。多摩川園駅との間の地下連絡線は、運転系統変更までの約6年の間、目蒲線の一部として機能し、7200系や7700系の4連が走っていました。
他方、大岡山駅の改良は平成2(1990)年に着手され、こちらは田園調布-多摩川間の改良完成の2年後、平成9(1997)年6月27日に完成しています。

多摩川園-日吉間ですが、この区間は東横線と完全並行するため、実質的に東横線の複々線化の意味を持つことになりました。この区間では、外側2線が東横線、内側2線が現目黒線となっていますが、内側線と外側線を交互に行き来する列車は存在せず、運転系統上も全くの別路線として取り扱われています。
複々線化工事は昭和63(1988)年11月から着手されますが、この年新丸子駅付近の高架化が完了し、当時の新丸子駅は島式ホーム1面2線ということもあり、同じ東横線の学芸大学駅と似た雰囲気になりました。しかし完成後ほどなくして、さらに手が加えられることになります。いうまでもないことですが、現在の新丸子駅には当時の面影は全くありません。
とりあえず、多摩川園-武蔵小杉間の複々線化が平成11(1999)年ころまでにはほぼ完成し、内側2線にはレールを敷設しないか、あるいは敷設しても列車が走らない状態でしばらく使用されていました。そして平成12(2000)年8月6日、田園調布-武蔵小杉間の複々線化完成に伴い、目黒線(目黒-田園調布-武蔵小杉)と東急多摩川線(多摩川園改め多摩川-蒲田)に運転系統が分割され、路線名称としての目蒲線が消滅しました。

武蔵小杉から先、日吉への延伸は系統分割から8年後の平成20(2008)年6月ですが、なぜここまでずれ込んだかというと、検車区のある元住吉付近の高架化をどうするかが難問だったから。元住吉には東横線と目黒線車両の基地である元住吉検車区があり、当然のことながら車両の出し入れができなければなりませんが、元住吉駅は地平にありました。そして同駅の横浜方にある元住吉1号踏切が、事実上「開かずの踏切」となっていたため、地平のまま複々線化したのでは「開かずの踏切」化がますます進むとして、高架化を前提とした複々線化の案を練ることになったわけです。
結局、武蔵小杉-元住吉間については、地平を走る現行路線の直上に高架線を建設してそこに東横線の列車を走らせ、地平の現行路線は目黒線として使用することにしました。そして地平の元住吉検車区を通る線路は残し、元住吉駅は目黒線ともども高架化しています。高架化にあたっては、高架のホームのさらに上に駅設備を設けたため、地上からかなりの高さまでエスカレーターで上がるという、かなり特徴的な駅構造となっています。これに対して、元住吉-日吉間の線形は、通常の複々線となりました。ただし、東横線下り線に合流する検車区との連絡線が設けられています。これらにより、出入庫列車の「元住吉行き」「元住吉発」は東横線の最終と初電を除き消滅し、入庫列車は上下とも武蔵小杉止まり、出庫列車は上り列車の場合武蔵小杉始発、下り列車の場合日吉始発があります。

以上とは別に、洗足-不動前間の立体交差化工事(不動前駅高架化、それ以外は地下化)も進められ、こちらは平成18(2006)年に完成しています。この完成により、武蔵小山駅が2面4線の構造となり待避が可能となったことから、目黒線で初の優等列車となる急行列車の運転が開始されています。

次回は、いよいよ「目蒲線」が終焉を迎える、激動の平成12年を詳しく振り返って参ります。

その8(№5087.)に続く
 

※ 当記事は02/28付の投稿とします。