-その19から続く-

今回は、「のぞみ」が初登場した、平成4(1992)年3月のダイヤ改正のころから見ていきます。

これまでの「ひかり」の上を行く、最高速度を50km/h上回る列車ということで、JR東海は、当初「スーパーひかり」と仮称していたこの列車について、「ひかり」「こだま」以外の別の愛称を付けることとし、そのための選定作業に入りました。その選定作業の過程では、様々な愛称が提案され、提案の中には、在来線時代の国鉄を代表する特急の名称「つばめ」もあったといいます。しかし、これはJR東海の幹部が「畏れ多すぎる」という理由で回避しました。
結局、「ひかり」「こだま」が光と音という物理現象の対比だったことから、物理現象で最速の光の上を行くということであれば、もうそれは物質的なものを超えた精神的、スピリチュアルなものしかなく、そこから「希望」を大和言葉にした「のぞみ」が採用されたということです。なお、一部では公募ともいわれていますが、公募したことはありません。
ちなみに、「のぞみ」登場の4ヶ月後、九州で「つばめ」が復活していますが、もしこのとき「のぞみ」ではなく「つばめ」の愛称がついていたらどうなっていたでしょうね。その後、「のぞみ」が博多に達し、さらに東海道新幹線でも中心的役割を担うことになるわけですから、「『つばめ』の復活」と騒がれたことでしょう。でもそうなったら、九州のあの特急は別の愛称…「はと」とかになっていたのでしょうか。そうなったら九州新幹線の列車名に「はと」が復活する可能性もあった?

…妄想はそのくらいにしまして(汗)

「のぞみ」という列車の愛称は、全くの初出ではなく、かつて日本統治時代の朝鮮半島で、朝鮮鉄道・南満州鉄道の釜山-新京(現瀋陽)間で走っていた急行列車の名前でした。そしてこの釜山-新京間には、兄弟列車として急行「ひかり」も走っていましたから、「ひかり」「のぞみ」のコンビは、昭和19(1944)年の戦況悪化による運転休止以来、実に48年ぶりの復活となりました。
さらに余談ですが、「のぞみ」の愛称が、「ひかり」ともども日本統治時代の朝鮮半島で走っていた急行列車の名前だったことから、東京新聞の読者投稿欄に「日本の植民地支配を象徴する列車名を掘り起こすのは反対」という投書が掲載されたことがあり、ちょっとした物議を醸したことがあります。しかし、日本の朝鮮半島統治は欧米流の支配・収奪を主とする植民地支配とは全く異なるものであり、この投書には事実誤認があります。また、仮に百歩譲って植民地支配を是とするとしても、それでなぜ「のぞみ」が「使ってはいけない愛称」となるのか、管理人には全く理解できません(この問題に関しては、コメントをご遠慮願います)。

平成4年の運転開始時は、まだダイヤパターンに組み込まれないイレギュラーな存在ということで、早朝・深夜各1往復だけの運転とされました。列車の号数も「301~304」であり、エースナンバー1は依然として「ひかり」のものでした。
「のぞみ」運転開始に当たり、問題となったのが、停車駅パターンの選定です。
「のぞみ」は最速列車として停車駅をできるだけ絞り込み、夜の下り303号と上り302・304号は、それぞれ名古屋・京都のみの停車とされていました。
しかし、朝の下り301号は、それら列車とは異なる事情を抱えていました。
そもそも、「のぞみ」のコンセプトは、東京を早朝に出発して、大阪の朝9時の始業に間に合うというものでしたから、そのコンセプトに忠実であろうとすれば、大阪の都心部に到達する時間を考えれば、どうしても新大阪到着8時30分は動かせません。しかし、当時は夜間の保線工事の関係で、早朝の数本の列車については減速運転を余儀なくされていました。そのため、朝の301号を名古屋・京都に停車させると、新大阪に8時30分に到着できるダイヤを組むことができなくなるという事情があったのです。
そこでJR東海は、この301号を東京南西部や神奈川・八王子地区からの集客を狙って新横浜に停車させた一方、自社本社所在地の名古屋と国際観光都市の玄関口の京都を、いずれも通過扱いにするという、実に大胆な策に出ました。これに名古屋の政財界が、名古屋を蔑ろにする「名古屋飛ばし」ではないかと反発、ちょっとした騒動になりました。JR東海はこれに対して、先行・後続列車の適切な設定などで名古屋・京都両駅の利用者の不利益を最小にする配慮をしており、現にこの1年後の博多直通「のぞみ」の運転開始時には、この列車に続行する形で博多行きの「のぞみ」を走らせ、そちらは新大阪以遠に直通するためもあるのか、名古屋・京都両駅停車としました。この「のぞみ」の早朝の雁行は、途中駅に停車しても新大阪到着8時30分が確保できるようになった、平成9年11月のダイヤ改正の際「のぞみ301号」が廃止されたことで消滅し、この列車の消滅によって、名古屋・京都を通過する列車も消滅しています。
そして「のぞみ」は、自由席がある「ひかり」「こだま」とは一線を画し、全車指定席でスタートしました。当時の時刻表には、「全車指定席」という注意書きが書いてあったものです。東海道新幹線での全車指定席の定期列車の運行は、「ひかり」に自由席を設けた昭和47年の岡山開業以来、20年ぶりとなっています(臨時列車では多客期に事例あり)。

そして注目された料金体系ですが、東京-名古屋間で750円、東京-京都・新大阪間で950円(いずれも当時)、それぞれ「ひかり」「こだま」より割高な料金となりました。勿論、この差額は圧倒的なスピードに対する対価ということです。このように、列車によって差がある料金体系の採用は、昭和47(1972)年の岡山開業を機に「ひかり」「こだま」の料金差がなくなって以来ですから、こちらも20年ぶりとなっています。
さらに注目されたのは、「のぞみ」について、「フルムーンパス」などの割引企画切符の利用者を一切締め出したこと。当時あった「新幹線エコノミー切符」も「ひかり」「こだま」限定でした。これらの切符では、仮に特急料金相当額を支払っても「のぞみ」には乗ることができない取扱いをしています。このため、当初は出張に「のぞみ」利用を認めない会社も結構あったとか。
ちなみに、この特別列車としての扱いは、「のぞみ」が列車体系の中心になった現在も続いていて、平成15(2003)年10月から自由席が設けられてもなお、この自由席にはジャパンレールパスでも乗車することができなくなっています。

平成4年のダイヤ改正は「のぞみ」ばかりが注目されますが、あくまでこの時点では「のぞみ」はイレギュラーで、ダイヤパターンには組み込まれていません。
実は「ひかり」の充実が頂点に達したのがこのときの改正。ダイヤパターンを再度修正し、1時間あたり「ひかり」を8本運転可能とする「8-3ダイヤ」が実施されました。この改正から「Wひかり」は毎時07分の発車となり、その両脇を00分発新大阪行き「ひかり」、10分発岡山行き(新横浜停車)の「Aひかり」が固める体制で、「Wひかり」の乗客集中にも十分な対策が取られています。その「Wひかり」の運転時分も、「グランドひかり」100系V編成の威力により、東京-博多間5時間47分(100系V編成使用列車)と、ささやかながらスピードアップが図られています。この改正で100系はV編成のみならずG編成も出揃い、そのほぼ全てが「ひかり」運用を担い、黄金期を迎えています。
その一方で0系がさらに勢力を縮小し、それによって食堂車連結列車が減少したため、この改正では帝国ホテルが列車食堂営業から撤退しています。列車食堂事業者の撤退は、この2年前の都ホテルに続くものですが、このころから、東海道・山陽新幹線においては、食堂車・ビュフェ車の退潮がはっきりした形で見えるようになります。

そして翌平成5(1993)年のダイヤ改正を迎えるのですが、そのお話はまた次回。

-その21に続く-