1980年代も半ばに達すると、それまでの0系について、内外装・メカニックとも陳腐化が顕著になってきました。そこで、抜本的な改良を施した新系列の登場が待ち望まれましたが、同年代当初は0系編成内部でも経年がバラバラで、とても編成単位での置き換えは難しく、そのため0系で0系を置き換える状況が続いてきました。
しかし、同年代末には、博多開業をにらんで編成単位で大量投入された0系が一斉に取り替えの時期を迎えることから、国鉄はこれを千載一遇の好機とばかり、新機軸を盛り込んだ新系列・100系を投入します。
100系に関しては既に様々なところで語られていますので、今さら詳述しても…という感もありますが、スペックをざっと列挙しておきましょう。

1 制御方式をサイリスタ位相制御に変更、主電動機の出力も向上。
2 主電動機の出力向上に伴い、0系のオールM構成を転換し、先頭2両と中間車2両を付随車化。中間2両は2階建て構造とし、1両を食堂車、1両をグリーン車とする。
3 グリーン車には、新幹線で初めてとなる個室を設ける。
4 普通車のシートピッチを980mm(0系2000番代)から1040mmに変更、3人掛け席も転向可能に。かつ普通車座席を無段階式リクライニングに変更。
5 ビュッフェ車は設けない。

その他には、0系と同じ塗り分けでありながら、地色がアイボリーから白に変更され、よりコントラストが鮮やかになりました(後に0系も100系に倣って変更)。また、窓周りの青色の下側に、青色の細帯が追加され、この細帯は「ピンストライプ」として、100系を象徴するものとなりました。また先頭部の意匠も、シャークノーズといわれる鋭いものになっています。

100系は「X0」の編成番号を得た試作編成が昭和60(1985)年3月に登場し、試運転を繰り返しましたが、同年10月1日から東京-博多間の「ひかり3・28号」で限定運用され、営業運転に就きました。2階建て車両の眺望やゴージャスな個室などが利用者の評判を呼び、「ひかり3・28号」の特急券は、瞬く間にプラチナチケットと化しました。
 
国鉄の民営化を控えた昭和61(1986)年には、量産車4編成が登場しました。この時点では2階建て車両は組み込まない12連で落成しています。量産車は、平屋建てグリーン車を全部座席とし(試作車には個室があった)、試作車では1席1枚だった狭窓を2席1枚の広窓とし、さらに眺望が向上しました。これは、ガラス製造技術の向上により、大きなガラスでも強度を確保できるようになったことが理由です。
この量産車4編成は、足慣らしとばかり当時12連だった「こだま」に投入され、好評を博しています。
そしてこの年の11月、量産車編成は、2階建て車両を含む中間車4両を組み込んで「ひかり」仕様の16連を組み、東京-博多間直通の「ひかり」に集中的に投入され、100系の人気は盤石なものになりました。なお、これに先立って試作編成も量産編成に車内の設備をあわせる改造が行われ、編成番号も「X0」から「X1」に、量産編成はその続番になっています。
昭和62(1987)年は国鉄の分割民営化の年ですが、年度末にあたるこの年の3月、100系は16連2本(X6・X7)が追加投入され、この時点で東京-博多間直通「ひかり」の運用の過半数をほぼ掌握しています。

この体制で国鉄からJRへの移行を迎えますが、JR移行後の100系の増備は、JR東海とJR西日本で対応が分かれることになります。
JR東海では、昭和63(1988)年3月のダイヤ改正に対応すべく100系3編成の追加投入を行いましたが、この3編成は2階建て部分の食堂車を廃止してグリーン席とし、階下部を「カフェテリア」という巨大な売店車とした編成で、グリーン車が初めて1編成3両となったことでも注目されました。このとき、なぜ食堂車を廃止したかについて、JR東海は東京-新大阪間の短距離運用を主に担当するからという説明をしていましたが、今にして思えば、食堂車の連載の際に申し上げたとおり、カフェテリアという巨大な売店車を世に出したことで、食堂車を「安楽死」させようとしていたのではないかと邪推しています。現に、「G編成」といわれたこの仕様の編成は0系編成を置き換えましたが、0系「ひかり」が100系G編成に置き換えられれば、それだけ食堂車連結列車が減っていくわけですから。
100系G編成は、平成4(1992)年まで実に50編成が製造され、国鉄時代に製造されたX編成ともども、100系がJR東海の新幹線の顔として君臨することになります。
なお、G編成は、最初の3編成の個室が1~3人用でX編成と同じだったのですが、4編成目からは新たに4人用個室を設置、最初の3編成も後に改造で仕様を揃えました。これによって、X・G編成で個室の仕様が分かれてしまったことになります。

これに対して、JR西日本が投入した100系は、これらX・G編成とは構成が全く異なっていました。
X・G編成では2階建てが2両だったものを、こちらは4両とし、しかもそのうち1両はJR東海が増備を見送った食堂車、残りの3両は2階部分をグリーン席とし、1階部分を横4列の普通席としています。1階部分を普通席としたのは、山陽区間ではトンネルが多く眺望がまるで期待できないことを逆手にとったことと、個室の利用状況が山陽区間ではそれほど芳しくないことを考慮したものと説明されています。また注目されるのは、山陽区間では線形の良さを生かし最高速度を230km/hに引き上げたことで(信号を読み替えるトランスポンダを搭載)、これによってさらなる山陽区間の時間短縮が図られています。
この100系編成は平成元(1989)年3月のダイヤ改正直前に落成し、その後JR西日本が「グランドひかり」という愛称をつけました。管理人も「グランドひかり」編成を何度か東京駅で見たことがありますが、2階建て車両が4両連なっている威圧感は大変なもので、「グランドひかり」の愛称は伊達ではないと思ったことです。
この編成は「V編成」と命名され、やはり平成4(1992)年までに9編成が落成、こちらも東京-博多間直通「ひかり」を中心に運用されています。
今にして思うと、この「グランドひかり」編成は、東京からの乗客をいかに西に引っ張るか、山陽区間の乗客をいかに東まで引っ張れるかを最大限に考慮した点は、後の500系の設計コンセプトに生かされているように思われます。
余談ですが、このころの東京-博多間直通「ひかり」って、午前中に東京駅を出る列車がX編成、午後の列車がV編成だったんですよね。だから、V編成に乗ろうとすると、東京駅からの出発だと結構使いにくかった印象があります。

このように、100系はX・G・Vの3つの仕様の編成が登場し、編成数は3種合計して全70編成、総両数1120両を数え、東海道・山陽新幹線の主役の座に登り詰めました。人間に譬えれば、富と名声を独占して栄耀栄華をほしいままに…という状況でしょう。

しかし、実は100系は「モデルチェンジ車両」とは言われたものの、モデルチェンジしたのは接客設備その他の内装面で、メカニックはそうではありませんでした。制御方式こそ変わったとはいえ、直流電動機を使用している点は0系と同じでした。また、2階建て車両は眺望や居住性で乗客に対する大きな「売り」にはなったものの、車両重量が嵩む点が、高速化や騒音に対しては足枷となってしまっています。実際、平成初期にJR西日本がV編成を使用して高速試験を行ったのですが、そのときの結果は、275km/h運転に技術的・車両面の問題はないとされたものの、騒音と軌道破壊の問題がどうしてもクリアできなかったというものでした。
それゆえ、100系を使用しての抜本的な高速化は事実上不可能であり、それは100系の後に登場した300系にゆだねざるを得なくなりました。そしてそのことが、100系の寿命を縮めることにもなってしまうのです。

その17に続く

※ 当記事は暫定的に08/02付の投稿とします。そのため通し番号(ブログナンバー)は振りません。
※ 08/04付で07/22付の投稿に変更、併せてブログナンバー2841を振ります。