車両面の話題が続きましたが、今回は国鉄民営化直前から「のぞみ」登場前夜までの、東海道・山陽新幹線のダイヤのお話を。

国鉄の分割・民営化を翌年に控えた昭和61(1986)年11月、国鉄時代としては最後となる白紙ダイヤ改正が行われました。これはただの「ダイヤ改正」ではなく、これから移行する新会社の体制を暗示するためのものでもありました。
そのような暗示をする必要があったのは、東海道・山陽新幹線も例外ではありません。まず最高速度をそれまでの210km/hから220km/hに引き上げ、僅かですが最高速度の向上がなされています。それによって、東京-新大阪間の所要時間が開業以来初めて3時間を切り、名古屋・京都停車の「ひかり」で2時間56分となっています。最終の上下1往復に限れば、夜間でダイヤに余裕があるため余裕時分を切り詰めて2時間52分と、さらに速くなっています。
最高速度の向上と、それに伴う所要時間短縮は、勿論山陽区間でも行われています。これによって、新大阪-博多間の所要時間は、こちらも3時間を切って、2時間59分となりました。以上により、東京-博多間直通列車の最速の所要時間は、開業以来の6時間を切って、5時間57分となっています。
山陽区間では、所要時間短縮よりも列車体系の刷新が行われたのが目を引きました。山陽区間では0系をモノクラスの6連に組んだ「こだま」を大増発し、「ひかり」も東海道用の「こだま」編成を転用した12連が山陽区間限定で走るようになるなど、山陽区間の利便性の向上が図られています。これまではどうしても「全国一社」による「東京偏重主義」で、山陽区間が東海道区間の延長のように見られることが多かったのですが、そのような見方が改められたといえる、ある意味では象徴的な日でもありました。以前に取り上げた、京都から博多まで延々各駅停車で走る「Bひかり」など、山陽区間では供給過剰でしかなかったですからね。

民営化後は、青函トンネルの開業などに伴って昭和63(1988)年3月に全国規模でのダイヤ改正が行われています。東海道新幹線でも、このとき100系G編成が3編成投入され、さらに深夜の列車に限って東京-新大阪間の所要時間が2時間49分と、さらに短縮されています。
その一方で「こだま」の利用率が振るわなかったため、JR東海は指定席車の座席を横4列に改めてグレードアップし、「2-2シート」と名付けてアピール、あわせて「こだま」指定列車使用を条件に大幅に運賃・料金を割り引き、さらにワンドリンクサービスを付加した、「ぷらっとこだま」と称する旅行商品の発売などでイメージアップを図っています。その後「こだま」は新駅開業や好景気で乗客が戻り始め、平成元(1989)年4月28日から、再度16連化に着手されています。
山陽区間では、JR西日本が0系の6連について、モノクラスでありながら全て横4列の座席に取り替え、ビュッフェ車もそれまでのカウンターから椅子とテーブルをおいた町中の喫茶店のような内装に改めるリニューアルを施し、山陽区間専用の「ひかり」として走らせ始めました。この「ひかり」は「ウエストひかり」という愛称が名付けられ、0系とはいえハイグレードな接客設備が好評を博しました。また「ウエストひかり」は、航空便が飛ばない時間を中心に運転していたことからもともとの利用率が高く、混雑が慢性化したため、後にグリーン車1両を組み込んだ12連で運転されるまでになっています。またこれとは別に、12連で運転されていた山陽区間限定の「ひかり」にビデオルーム(有料)を設置、トンネルだらけの山陽区間ならではのサービスを提供します。しかし、こちらはそれほど盛況ではなかったとか。その後程なく、有料だったビデオルームは無料開放され、その後廃止されています。
「ウエストひかり」で最も注目されたのは、編成もそうですが、ビュフェ車の営業担当業者。確か早朝に新大阪を出る下り列車だったと思うのですが、それまでの「帝国」とか「都」とかいう名称に加えて、いきなり「丸玉」なる名称が出たのには、愛好家の間で様々な憶測を呼びました。この「丸玉」とは、「丸玉給食」という業者ですが、現在は「マルタマフーズ」という社名になっているようです。この列車では「丸玉給食」の提供するカレーライスが好評を博したとか。管理人は食べる機会はありませんでしたorz

翌平成元(1989)年3月のダイヤ改正では、JR東海は遂にダイヤパターンに手を付け、それまでの「6-4ダイヤ」を改め、さらに「ひかり」1本の増発を可能にした「7-4ダイヤ」に移行しました。これによって、毎時52分発の「ひかり」の枠が設けられましたが、これは名古屋・京都のみ停車の速達列車。定期列車は朝晩のみ、日中は臨時列車の枠としていますが、00分発の「Wひかり」の露払いとしての役割も期待されていました。もともと「Wひかり」には、毎時00分発という覚えやすさもあって乗客が殺到する傾向がありましたから、東海道区間のみのお客にはできるだけ他の列車に乗ってほしいという「遠近分離」をしたいとの狙いがあったわけです。

その「遠近分離」の狙いは、翌年の平成3(1991)年のダイヤ改正において、さらに深度化されます。それまで毎時56分発だった新大阪行き速達「ひかり」を毎時00分発とし、博多直通の「Wひかり」を毎時04分発の枠にシフトさせました。これによって、従前から頭痛の種だった、東海道区間のみの客と山陽・九州方面への客との「遠近分離」に成功しています。
この改正では、東海道区間では1時間あたり「ひかり」が最大7本運転、山陽区間でも需要に応じて「ウエストひかり」の他、0系の6連による「シャトルひかり」が新大阪-広島間で運転されるようになったため、東海道・山陽新幹線の「ひかり」は、質量ともクライマックスに達したことになります。
そして、この改正で「こだま」の再度の16連化も完成し、7年の月日を経て「こだま」が16連に戻されました。
このころまでに、100系は国鉄時代に投入されたX編成の他、JR東海・JR西日本がそれぞれ独自に投入したG編成・V編成がほぼ出揃い、00分発「ひかり」と04分発「Wひかり」にいずれも100系が充当され、G編成とX編成又はV編成が東京駅で並ぶ光景がほぼ毎時間見られるようになりました。この光景こそ、0系に代わって100系が東海道・山陽新幹線の覇権を握った象徴といえる光景といえます。

平成3年の時点で、「ひかり」の充実がひとつの頂点に達しました。
しかし、これ以前からJR東海は、航空機との競争をにらみ、東京-新大阪間2時間30分での運転を実現させようと、様々な研究を重ねていました。最高速度の向上だけであれば主電動機の出力アップや変電所の容量アップだけで済みますが、人口過密地帯を貫く新幹線では、騒音その他周囲の環境に及ぼす影響を無視することはできません。
そのような研究の結果生まれたのが、300系であり、同系を使用した新しい列車「のぞみ」であったわけですが、このお話は次回…の前に、新幹線新駅を取り上げてから、改めて取り上げることにいたします。

その18(№2846.)に続く

※ 当記事は暫定的に08/02付の投稿とします。そのため通し番号(ブログナンバー)は振りません。
※ 08/04付で07/29付の投稿に変更、併せてブログナンバー2843を振ります。