今回と次回は、日比谷線の車両列伝です。
営団が日比谷線用に用意した車両は、ステンレス車の3000系。この車両はステンレス製ですが、外板だけをステンレスとし骨組を普通鋼としたスキンステンレスであり、骨組までステンレス(オールステンレス)の東急7000系などとはことなっています。また、車体側面には波型模様(コルゲーション)がありますが、これは米バッド社のステンレス車に準拠したものではなく、高級感を醸し出すための営団のオリジナルなのだとか。
3000系については逸話がいろいろありますが、まず何と言ってもその先頭形状。当初営団では、球面に近い流線型にしたかったようですが、それは当時のステンレスの加工技術では不可能だったため、オーソドックスな半流線型にされました。とはいえ、前面窓上の「おでこ」が屋根部までほぼ真っ平に立ち上がっているため、鯨の頭部を連想させるとして、後に愛好家から「マッコウクジラ」の異名を取っています。ちなみに、「球面に近い流線型」は、後年東京メトロが副都心線・有楽町線用に投入した10000系で実現していますが、このような前面形状の車両が東急(東横線)や東武(東上線)を走ることになるとは、何かの巡り合わせでしょうか。
また、車体はステンレスのため無塗装とされましたが、そのままでは殺風景なことから、何か色帯を入れてはどうかという話もあったようですが、当時の営団の幹部は「等級帯を連想させる」といってその提案を却下しています。後年営団が東西線用に5000系を作ったときには、流石に誤乗防止のため帯を巻こうということになり、水色の細い帯が巻かれています。ちなみにこの水色、タバコの「ハイライト」の箱のそれと同じだそうです。幹部の1人が愛飲していた銘柄が「ハイライト」だったとのことですが…。

3000系は昭和36(1961)年、1次車として2連×15本が用意されます。同じ年、人形町開業と東武との相互直通運転を控え、2次車4連×6本と1次車2連を4連化するための中間車30両が増備され、これにより4連×21本となります。さらに輸送力増強用として3次車4連×2本が増備、これにより4連×23本となります。
昭和38(1963)年度になると、中目黒開業、そしてその後の全線開業が控えていますので、投入編成・車両数も増えますが、ここで初めて6連が9本、4連を6連化するための中間車が26両投入されます。これとは別に、中目黒開業用として4連×7本が用意されました(4次車)。
翌年度には5次車として6連×2本と4連を6連化するための中間車6両、さらにその翌年には中間車だけ6両が増備され、6連が増えました。
全編成6連化されたのは昭和41(1966)年のことで、このときは6連×2本と、4連を6連化するための中間車4編成分(8両)が増備、これにより6連×38本となります。
さらに昭和43(1968)年には8次車として6連×1本が投入され、3000系の編成単位の増備はここで終了します。
最後の増備は昭和46(1971)年の8連化のときで、このとき4連ずつに分割して構内運転を可能にするため、簡易運転台を搭載した中間を70両投入しました。このとき、6連から2両抜いて4連×2を作り、抜かれた中間車を改造して組み込んでいます。これにより、8連×37、4+4連が1本の合計38本体制となり、これが03系投入まで続くことになります。

3000系の増備の過程では、ATO運転の成功と保安装置搭載の話は外せません。
運転士がいなくとも自動運転を可能にするATOは、既に昭和36年に開始されており、現車での試験は翌37(1962)年から開始されています。試験結果は良好で、報道陣に公開した試験や私鉄・国鉄・関係省庁の関係者を招待しての試験なども行われ、いずれも好結果を収めています。種村直樹さんの「地下鉄ものがたり」では、当時のソ連の幹部が日比谷線でのATO試験運行を視察し、寸分狂わぬ停止位置に驚嘆の声を上げたという話が載っていました。
完全な無人運転は、パリのメトロ14号線や、日本でも神戸のポートライナーや東京の「ゆりかもめ」、大阪のニュートラムなどの新交通システムで採用されていますが、普通鉄道では今のところ我が国での採用例はありません。これは、利用者の感情や車内治安の維持の点から無理があると判断された結果だといわれています(パリのメトロ14号線には、駅にも車両にも無数の防犯カメラがあり、センターで監視している)。我が国でのATOは運転士抜きでの無人運転の実現ではなく、ホームドアシステムの採用により停車位置精度を確保する必要が生じたために(ホームドアがあると停止位置の正確性がよりシビアに要求されるため、手動運転では運転士に対する負担が大きい)、運転士をバックアップするためのシステムとして採用されています。
2つ目の保安装置の話ですが、勿論日比谷線内での保安装置はATCを搭載・使用していましたので無問題。したがって、これは乗り入れ先のお話です。
乗り入れ先の保安装置の搭載は、東急用・東武用とも昭和43(1968)年に開始されていますが、このとき東急用だけを搭載した編成と東武用だけを搭載した編成とが分かれてしまい、非常時のリカバリーに多大な負担を現場にかけてしまうことになりました。現在の03系は全編成東急・東武いずれの保安装置も搭載していますので、このときの問題は全くなくなっています。
ちなみに、3000系の当時、東急・東武いずれの保安装置も搭載している、つまり東急・東武どちらにも乗り入れることができる編成は38編成(8連化後)中僅か8編成しかなく、車両運用にはさぞかし苦労が絶えなかったでしょうね。

そんな3000系も、昭和63(1988)年からの03系投入開始からしばらくして、淘汰が開始されました。4+4の変則編成が真っ先に引導を渡されたのは当然としても、櫛の歯が欠けるように数編成ずつ退役していきました。淘汰着手当初は、車齢の若い3500形を他の編成に組み込むなどの編成替えを行っていましたが、それもすぐに行われなくなり、編成丸ごとの淘汰が進行していきます。
そして遂に平成6(1994)年4月、3000系は8連×5編成までに減少し、平日朝ラッシュ時に動くのみになってしまいました。このころになると、日比谷線でも冷房が当たり前になり、それがない3000系は「走るサウナ」としてサービスレベルを満たすものではなくなってしまいました。また3000系は03系よりも窓が小さく、03系と比べて車内が暗い(ような気がする)ことも淘汰を促進させたといえます。
そこで同年、1編成に鯨のラッピングを施した上で「さよなら運転」を行い、3000系は日比谷線から姿を消しました。3000系は一部が長野電鉄に移籍した他は、走り装置が富山地方鉄道や一畑電鉄などに譲渡されています。

平成19(2007)年、長野電鉄に譲渡されていたトップナンバーの3001・3002が里帰りし、綾瀬車両基地のイベントで一般公開されました。その後もイベント開催時には公開されています。

3000系が日比谷線から姿を消して18年。
今でも中目黒の日比谷線のトンネル出口を見ていると、あのマッコウクジラが出てくるのではないかという妄想に駆られることがあります。3000系は日比谷線のイメージを決定づけ、強烈なインパクトを残して去った車両でした。現在は03系が後を継いでいますが、03系が東横線に来なくなるのは寂しい限りです。