前回述べたとおり、昭和39(1964)年8月29日、日比谷線が全線開業しました。

東急東横線と営団地下鉄日比谷線との相互直通運転が開始されたのは、文献などによるとこの日とされることが多いのですが(管理人もそのように思っていました)、実際は開業3日前の8月26日から、車両だけは中目黒-北千住間を通して運転しており、かつ東横線との直通も26日には既に始まっていました(ただし客扱いは霞ヶ関までで、霞ヶ関-東銀座間は回送)。(※)

東武側の直通列車は北越谷折返しとされましたが、東急側の折返し点は日吉。この駅は、副本線を持つ2面4線の駅で、折返し線も備えていましたから、ここが好適とされたのでしょう。現在折返し駅になっている菊名駅は、当時まだ副本線のある緩急接続可能な構造にはなっておらず、この駅を折返し駅にするのは、昭和39年当時ではできない相談でした。菊名駅が現在の形になるのは昭和47(1972)年のことで、これは菊名駅が大雨の際に冠水することが多かったため、国鉄(当時)・東急とも線路の嵩上げを行って改良したものです。このとき、菊名駅の横浜方に折返し線が完成しています。

当時の日比谷線のダイヤパターンの基本は、日中4分間隔の運転とされ、東急との直通列車は3本に1本の割、つまり12分間隔とされました。その後、日比谷線の8連化に際して5分間隔に改められましたが、このときも「3本に1本」という割合は変わらなかったため、東横線からの直通電車は、この8連化のときに15分間隔となっています。(※)

これに対して、東武側からの流入は増え続け、遂には本来のターミナルだった浅草の地盤沈下をもたらし、浅草-北千住間はローカル線に転落してしまいます。これは、東武線のターミナルが山手線の環の上にすらない場所で、都心部とのアクセスに難があったものが、日比谷線とつながったことでその難が解消されたため、沿線の大規模な宅地開発と相まって、利用者が爆発的に増加したことによるものです。日比谷線全通の5年後、昭和44(1969)年に千代田線北千住-大手町間が開業すると、そちらにも乗客が流れ、浅草駅と浅草-北千住間の地位はさらに低下して行きました。
浅草-北千住間が息を吹き返すのは、千代田線開業の34年後、平成15(2003)年に半蔵門線とつながってからですが、このルートは日比谷線・千代田線と比べて遠回りであることから、日比谷線・千代田線の混雑緩和はそれほど進んでいないようです(現在でも、千代田線の最混雑区間は北千住-西日暮里間)。
なお、東武側の乗入れ先は、昭和41(1966)年には北春日部まで達しています。

ともあれ、東急は、創業者・五島慶太の悲願だった広尾へ、そして都心へ、直通列車を運転することになりました。
都心直通列車の栄誉を担ったのは、当時の最新鋭7000系(初代)。この車両は米国バッド社との技術提携により製造された、我が国初のオールステンレスカーですが、意匠も当時の米国フィラデルフィアの電車をそのまま持ってきたようなもので、当時東横線を走っていた、丸みを帯びた「青ガエル」5000系や、武骨な戦前製のデハ3450形などと比べても、異彩を放っていました。2両ユニット。オールMの6連に組み、北千住まで乗り入れています。当時地平にあった北千住では、東武の「DRC」1720系や「りょうもう」の前身の伊勢崎線急行に使われていた5310系・5700系、そしてもちろん「あの」7800系とも顔合わせを果たしました。

ところで。
以前の記事の中で、日比谷線の設備が八丁堀を境として、八丁堀-中目黒は8連対応、茅場町-北千住は6連対応だったというお話をしたことがあります。
しかし、直通列車が4連から6連になった後も、東武側から日比谷線へ流れる旅客の数は増加の一途をたどり、遂に日比谷線の8連化が計画されます。このとき営団は、茅場町以北の駅のホーム改修を行い、さらに車両も増備します。具体的には、既存編成に組み込む中間車と、8連貫通編成2本を導入しました。このときの車両の導入で、3000系の編成数は38編成に達し、両数も304両に達しています。この「38編成・304両」が3000系の最大在籍数となりました。
地下鉄など地下構造物を事後に作り変えることの大変さは、つとに指摘されていますが、それにしては日比谷線はよくぞホーム延伸ができたものだと思います。この理由は、恐らくですが日比谷線の工事方法にあるのではないかと思われます。日比谷線は地下部のほぼ全部が、開削工法と呼ばれる、地上から直に掘ってトンネルを築く(開削)工法で建設されています。この工法は工事が簡単で浅い場所に地下鉄を敷設できる利点があることから、初期の地下鉄建設にはよく使われました。しかし工事時の専有面積が大きすぎることや、道路や空き地の上からしか掘れないこと、深く掘るのが大変であることなどがネックとなり、最近の地下鉄はシールド工法(シールドマシンと呼ばれる掘削機を基地から発進させて掘り進み、その後をセグメントと呼ばれるコンクリートブロックで固めていく工法)が主流になっています。シールド工法では事後の改修はほとんど不可能ですから、開削工法が事後のホーム延伸などに寄与したとみる理由です。
もちろん、この8連化に伴って、東武2000系も、そしてもちろん東急7000系も8連化され、輸送力増強が実現しました。
余談ですが、この8連化の際、営団3000系で1編成だけ、4連を2本つなぎ合わせた4+4の編成が出現しました。この変則編成には管理人も何度か遭遇したことがありますが、あの特徴ある前頭部を中間でつなぎ合わせるというのは、外から見ても中から(乗って)見ても、異様な印象があります。中間運転台の部分には大きな「立入禁止」の貼り紙があり、それも異様な雰囲気に輪をかけていたように思います。この貼り紙からお分かりのとおり、この編成は中間での通り抜けはできませんでした。後年、中間に組み込まれた先頭車からは、灯具類が取り外されてステンレス板で覆われ、現在の東武30000系やかつての小田急9000形のような風貌になっていたのを覚えています。この編成ですが、やはり厄介者だったのか、03系導入とほぼ同時に、真っ先に廃車されてしまいました。
ただ、8連化された当時、東武2000系は全編成貫通編成(中間に先頭車が入らない)ですが、東急7000系は貫通編成が乗入れ編成9本中2本だけで、あとの7本は中間に先頭車が入る6+2の編成でした(2連は中目黒寄りに連結されていた)。後年登場した03系などの5扉車が、編成両端の2両となっていること、その理由が日比谷線は編成の両端が混雑することを考えると、中目黒寄りの中間の運転台は顰蹙を買わなかったのでしょうかね?

東武側の乗り入れは、昭和56(1981)年にはさらに遠方へ伸び、「杉戸」改め「東武動物公園」へ達します。これは、通勤圏の外縁部への伸びに対応したのと同時に、当時オープンした動物園をアピールする狙いがあったものでしょう。これ以後、さすがにここから先へは直通電車は達していませんが。しかし、平成15(2003)年に半蔵門線から直通列車が入るようになったときは、東武動物公園より先の南栗橋、さらに平成18(2006)年には久喜まで達するようになっています。ただし、日比谷線直通列車が各駅停車であるのに対し、こちらは通過駅のある優等列車ですが。
その間も、東急側の折返し駅はずっと日吉駅、運転間隔も朝夕ラッシュ時以外は直通開始当時のままでした。

次回と次々回は、車両列伝として営団3000系と東急7000系を詳しく取り上げます。

その5(№2337.)へ続く

※ おことわり(平成24年10月19日 17時16分記載)
太字で記載した個所は、3801F様からご指摘を賜り、事実誤認となっていた部分を訂正したものです。
3801F様、ありがとうございましたm(__)m