以前の予告では、今回10回目に「2代目Max」ことE4系を取り上げ、後に長野新幹線開業を取り上げる予定でしたが、既に第8回でE4系に言及してしまったため、予定を変更し、今回長野新幹線開業を取り上げ、次回に新幹線の列車名の変遷を取り上げます。よろしくご了承のほどをm(__)m

新幹線の建設には巨額の費用がかかる。
そのため、山形や秋田では「ミニ新幹線」という、在来線サイズの車両が新幹線から直通する形態が出現したわけですが、この方式は、いわば「狭軌新幹線」をつくる「スーパー特急」方式とともに、昭和63(1988)年から整備方針として取り上げられるようになります。これに対して、従来規格の新幹線はこれらと区別する意味で「フル規格」と言われます。
そして長野新幹線(正式には北陸新幹線の一部)については、平成元(1989)年6月に工事計画が認可、同年8月には早くも着工されています。
このときの方式は高崎-軽井沢間がフル規格、軽井沢以遠がミニ新幹線でした。

この整備計画で注目されたのは、在来線の横川-軽井沢間、通称「横軽」といわれる、碓氷峠区間の廃止を盛り込んでいたことです。この区間は急勾配のため列車が必ず補機(機関車)を連結して行き来するという、非常に手間やコストのかかる運営方法を取っていたことや、機関車も投入後30年近くを経過して置き換えの必要が現実化してきたことから、新幹線開業でそれを解消したいという思惑もあったようです(山形新幹線の開業は、板谷峠対応の特殊な電気機関車をお払い箱にしたいという思惑もあった)。
さらにその後、長野県を中心とした沿線自治体が全線フル規格での開業を要望するようになったことや、長野で冬季五輪が開催されることが決定したことなどで、着工翌年の平成2(1990)年には、早くも全線フル規格に変更されています。全線フル規格への変更と引き換えに、在来線軽井沢-長野(後に篠ノ井に変更)間の経営を分離し、沿線自治体などが出資する第三セクターに運営を任せることも決定されました。この方式は、いうまでもなく並行在来線の運営の負担をJRに負わせないためですが、その後この方式は九州新幹線開業時にもとられ、さらに北陸新幹線の開業後もとられることが予定されています。
今にして思えばですが、このときの「全線フル規格への変更」は英断だったと思っています。確かに対長野だけを考えれば、碓氷峠の制約だけクリアさせればいいので、軽井沢以遠がミニ新幹線でもいいですが、問題は在来線の電化方式です。山形・秋田新幹線を通した奥羽線や田沢湖線は、もともと交流20000V・50Hzで電化されていましたから、新幹線とは電圧だけの違い(新幹線は交流25000V)だけで、直通は容易でした。しかし、信越線は直流1500V。ということは、ミニ新幹線車両にさらに交直切換の装置をも搭載しなければならず、技術的な難しさは山形・秋田の比ではなかったように思います。
ただし、建設費削減のための努力はされていて、高架橋を作らず地平を通す区間が増えたことや、高崎の分岐部で上越新幹線の下り線から分岐する方式をとったこと(ここで用意されたのが有名な『38番分岐器』だった)などです。

長野新幹線で問題になったのは、

1 碓氷峠をどう越えるか
2 東京駅のホーム容量が少なすぎる

ことでした。
前者については、車両・設備の両面で対策が図られました。長野新幹線の急勾配(在来線よりはずっと緩いが、新幹線としては破格)に対応できるような強力な走行性能を持った車両が平成7(1995)年に試作されました。これがE2系の第1編成ですが、当初は東北用と分けていなかったため、長野方に自動解結装置を搭載していました(量産車では非搭載)。メカニックは勿論VVVFインバーター制御。これによって大出力の主電動機を動かし、急坂を高速で上下することを可能にしています。ただし、流石に260km/h(長野新幹線の設計上の最高速度)というフルスピードは出すことができず、210km/hとなっています。それでも200km/h超で急勾配を上り下りできるって凄いですよね。
ちなみに、E2系の「顔」って、JR東海の300系のそれと似ていますよね。それには訳がありまして、国鉄時代から研究が進んでいた「スーパーひかり」計画と、北陸新幹線用車両の開発計画をJRが引継ぎ、その上で形にしたからだとか。VVVFインバーター制御の研究がなければ、北陸新幹線の実現はあり得なかったとまでいわれています。つまり、E2系も300系も「国鉄時代からの研究成果」を形にした車両といえるわけで、人間で言うなら血を分けた兄弟というより、遠い親戚のようなものでしょうか。
また、設備面での対策は、あえて遠回りをして距離を稼ぎ、全体として勾配を軽減するという方法で建設されました。それでも、最急勾配は30‰と、新幹線としてはかなりの急勾配になっています(後に九州新幹線に35‰の勾配が出現しましたが)。
さらに長野新幹線では電源周波数の問題がありますが、これは車両側で対応することとし、軽井沢-佐久平間に50/60Hzのセクションを設けています。これで地上側の設備投資は最低限で済みました。
この電源周波数の問題があるため、長野新幹線用のE2系は「N編成」といわれ、東北で使用される編成は「J編成」として区別されました。

そして東京駅のホーム容量については、ホームを増設することで対応しました。もちろん、ただ単に空いた土地に作るのではなく、ホームの移設によってスペースをひねり出したと言った方が正しいと思われます。
具体的には、まず一番丸の内側にあった中央線の発着ホームを高架に上げる。中央線ホームと丸ノ内の駅舎の間に高架線を立て、その上に新しい中央線のホームを作ります。そうすると、もとの中央線のスペースが空きますから、そこに山手線外回り・京浜東北線北行を入れる。さらにもとの山手線外回り・京浜東北線北行ホームのスペースには、山手線内回り・京浜東北線南行ホームを持ってくる。
…という具合に、1つずつホームをずらし、東海道線10番ホームとの間に、ホーム1面分のスペースを確保、めでたくホーム増設が実現しました。
ただしホーム番線については、東海道線が10番まで、東海道新幹線が14番から始まっているため、空きが3つしかなく、そのため20~23番線と飛ばした番号を振っています。これも国鉄時代では考えられない話で、国鉄時代あるいはJRが分社化されていなかったら、東北・上越・長野新幹線のホームは11~14番線、東海道新幹線のホームは1つずつ番号がずらされているか、逆にこちらの方が21~26番線になっていたかもしれません。
なお、新設されたのは20・21番線で、従来からあった東北・上越新幹線のホームを22・23番線としましたが、当初、20・21番線は編成の短い上越・長野新幹線が主に使用していました。

長くなりましたので、もう1本記事を立てます。


-その11(№2237.)へ続く-