その9(№2223.)から続く

前々回、山形新幹線を取り上げましたが、そのとき、新幹線の通じていない県として秋田県を取り上げました。秋田県も、山形新幹線の計画が動き出すにつれ、秋田への新幹線の直通を望むようになります。
ただ、当時でも上野-秋田間は「やまびこ」と「たざわ」の乗り継ぎで、最速でも5時間かかっていました。昭和63(1988)年3月のダイヤ改正から4時間30分台まで短縮したものの、それでも航空機とは勝負にならないレベルでした。

ところで、鉄道が他の競合交通機関、特に航空機に対し優位性を持つ所要時間として、4時間が目安といわれています。これは「4時間の壁」ともいわれ、それを越えると航空機が選択される傾向が強くなるそうです。
そのため、東京-秋田間は、新幹線直通によってもこの「4時間の壁」を突破できるかどうか疑問が呈され、採算性が疑問視されていました。在来線区間を改良する盛岡-大曲-秋田間は、山形新幹線の福島-米沢-山形間よりも長いことや、大曲駅の配線の関係でスイッチバックが不可避であること(計画段階では大曲駅の移設も検討されたが、結局実現しなかった)などの要因で劇的なスピードアップが望めないことで、果たして航空機と「勝負になるのか」ということです。
しかし、秋田空港が秋田市の中心部から距離があり、搭乗手続その他の手続に必要な時間を含めれば時間的には十分太刀打ちできること、1時間ごとの頻繁運転であれば、所要時間の不利をカバーして余りある利便性が確保されることなどから(航空便と違い、鉄道は発車1分前の飛び乗りも可能)、航空機とも十分勝負になると判断されました。
そして何より、秋田県など沿線自治体の「東京直通」実現に対する熱意。これらが結実し、工事費の一部を国や自治体が負担することを条件に(山形新幹線もこの方式で実現した)、平成4(1992)年から工事が開始されています。
ただし田沢湖線は全線単線のため、山形新幹線のときの奥羽本線のように単線で運転しながら改軌するという芸当ができず、平成8(1996)年から1年間、田沢湖線を全線運休し、改軌工事を行っています。その間ローカル輸送は代行バスでしのぎ、新幹線との連絡は北上線に気動車特急「秋田リレー」を運転して対応しました。
また、山形新幹線と異なるのは、奥羽本線の一部に在来線との三線軌区間を作ったことです。これは新庄・横手方面との直通の必要があったためでもありますが、もともと複線だった奥羽本線を、改軌により標準軌と狭軌の単線並列にしてしまったため、新幹線列車の交換を容易にするためでもありました。

車両は平成7(1995)年に5連1編成がデビューし、「E3系」と命名されました。車種構成はグリーン車1・普通指定席車2・普通自由席車2の内容で、自由席車が指定席車よりシートピッチが狭いのも、先輩格の400系と同じです。しかし、グリーン車は400系の横3列に対して横4列と、「詰め込み仕様」になってしまったのは残念なことでした。
その一方で、メカニックは大幅に刷新され、400系の直流電動機ではなく、VVVFインバーター制御による三相交流電動機を駆動させる方式となっていて、最高速度を275km/hとしています。これはいうまでもなく、新幹線区間の東京-盛岡間において、できる限りの高速運転を行って所要時間を短縮するためですが、後に東北新幹線区間で併結運転をするようになるE2系と性能を合わせるという意味合いもありました(E2系については次回取り上げます)。外板塗色は白をベースにピンクのラインを入れ、正面は黒で装うという、400系と比べるとノーブルな感じにまとめられています。
そして列車名については、公募が行われましたが、1位から3位まで順に「こまち」「おばこ」「たざわ」となり、第1位の「こまち」が選ばれました。「こまち」とは秋田県出身とされる平安時代の女流歌人で、美人の誉れの高かった小野小町に因んでいます。人名を列車名に冠した事例は欧州に多く見られますが(シュヴァイツァー、ゲーテ、レンブラントなど)、日本にはあまり例がなく、管理人の思い違いでなければ、日本の鉄道で初めての「人名を冠した列車」ではなかったかと思います。
ただ、美人の修辞として「○○小町」なる語も頻繁に見られることからすると、「こまち」は美人の象徴を抽象化したものともいえ、単純に人名としてよいかは疑問の余地もあります。余談ですが、秋田県は美女の産地として有名だそうで、その要因としては水や米などの食糧、雪深い気候(外出の機会が少なく紫外線に当たらないため肌が白くなる)などが挙げられていますが、江戸時代に秋田に領地替えになった大名が元の領地から美女だけを選りすぐって連れて行ったためだという、元の領地にとっては身も蓋もない話もあります。

…それはさておき。

平成9(1997)年に入ると、E3系の量産車も出揃い、筆書き文字の「こまち」のロゴも入れられました。
そして遂に同年3月22日、東京-秋田間を「こまち」が走り出すことになります。
「こまち」は東京-秋田間を最速3時間49分で結び、東京-盛岡間は停車駅の少ない「やまびこ」と併結。併結相手は、当時最新鋭だったE2系と、まだまだ第一線で頑張っていた200系。200系と併結する列車の一部は、最高速度向上のためか、盛岡ではなく仙台で分割・併合を行い、仙台-盛岡間をノンストップで駆け抜けるという、面白いダイヤになっていました。
秋田新幹線の開業により、在来線時代は特急「つばさ」「いなほ」で8時間かかっていた東京-秋田間が、半分かそれ以下の時間に短縮され、乗客数も順調に増加していきました。そこで、開業翌年の平成10(1998)年には、早くも1両増結されることになり、普通指定席車仕様の車両を既存編成に組み込んでいます。E3系はその後も増備が行われ、開業時に揃えられた編成以降に登場したものは、最初から6連で落成しています。
なお、E3系車両そのものは、E2系などと併結されたままで東北新幹線内の「やまびこ」などに充当されている事例も多く見られます。

注目された「こまち」と航空機のライバル関係ですが、山形新幹線「つばさ」は航空便を壊滅に追い込んだのに対し、こちらは所要時間が長いためか、航空機の需要もそれなりに根強く、日本航空と全日空あわせて、現在1日9便運航されています。
また、秋田新幹線の開業に伴い、寝台特急「あけぼの」は廃止、羽越本線経由の「鳥海」が「あけぼの」と改称されています。「秋田リレー」は当然のことながら役割を失って全廃、車両は改造されてローカル用に転用されました。

「こまち」に転機が訪れたのは、平成14(2002)年の東北新幹線八戸開業でした。
このときから、東京-八戸間の速達列車として「はやて」が登場しましたが、「こまち」は全て「はやて」との併結運転となりました。そして「はやて」は、仙台発着の一部の列車を除き、原則として全車指定席で運転されることになりましたが、このときから併結相手の「こまち」も、全車指定席になりました。全車指定席になって座席は確保しやすくなったのに対し、自由席がなくなったことで、気軽に乗ることはできなくなってしまいました。在来線区間の盛岡-秋田間では、空席に座ることのできる特定特急券を発売していますが、それでも自由席がなくなったことに対しては、不便になったとの声が多くあがっています。かつての「あさぎり」や「北斗星」のように、1両だけ東京-盛岡間だけしか指定席を売らないようにして、盛岡-秋田間を自由席車として運用することもできなくはないでしょうが(座席予約システムのプログラムを変えるだけ)、恐らくそれをやらないのは、その車両の分秋田への直通客を締め出すことになってしまうからではないかと思われます。
また、全車指定席になったことで、元自由席車の2両も指定席とされたため、同じ指定席特急料金を払いながら、居住性に差があるという事態も出来しました。

現在、東北新幹線ではE5系の投入が進んでおり、同系の「はやて」と併結される「こまち」も見られるようになりました。
実は、E3系の後継者(車)として、E5系と併結して300km/hオーバーの高速運転が可能なE6系の投入が計画されていて、既に試作編成が1編成落成しています。こちらは7連となっており、全車指定席を前提に普通車は全車同じシートピッチになっています。現在試作編成は各種試験に供されていますが、来年度には量産車が登場するとのことです。
E6系の登場によって、秋田新幹線の開業時から活躍してきたE3系も、カウントダウンが始まったことになります。ただ「はやぶさ」と併結することになると、「はやて」とは最高速度が異なります。そこで、「はやて」と併結している「こまち」とはまた別の愛称が登場することがあるのか。その点も注目されます。

間近に迫った世代交代にも注目していきたいですね。

その11(№2236.)に続く