震災発生後、連載記事以外がいわゆる「計画停電に伴う節電ネタ」になっていることに気がつきました管理人です(挨拶


「節電ネタ」は東京都民である管理人にとって切実な問題ではあるのですが(確かに管理人の居住するエリアは、現実に停電が実行されたことはありませんが、毎日のように『ひょっとしたら今日こそは…』と思うのって結構なストレスですよ)、今回は思い切って節電ネタから離れ、地元の東急ネタと参りましょう。


今回の元ネタは、管理人のツイッター におけるこんなつぶやき。


準特急新宿行き、北野を発車。車内の照明が消えました。関西の私鉄の各駅停車みたい。まさか、この状態で新宿手前の地下区間に突っ込みはしないでしょうね…((((゚Д゚;))))ガクガクブルブルShun0722 様)

これに対し、管理人は大要「かつての東横線の急行は、代官山のトンネルを室内灯を点けないまま突っ込んでいった」旨返答しました。それに加えて、

@Shun0722 東横線急行にはいろいろ伝説がありまして(^_^;) 1、都立大学駅通過時110km/h超過 2、6000系(先代の)8連。やかましいのなんの。3、8000系6連。7000系8連とドア数は一緒だけど収容力は落ちる。冷房車充当のため苦肉の策。

というつぶやきをしたわけですね。

というわけで、今回はこれら「東急東横線の急行伝説」をネタにしようと思います。

その1 室内灯消灯のままトンネルへ突っ込む

東横線には代官山~中目黒間と、反町~横浜間にそれぞれ短いトンネルがありました(後者は東白楽以遠の地下化で姿を消していますが)。
かつての東急では昼間は室内灯を消灯しており、これらトンネルに突っ込む直前に室内灯を点灯させ、トンネル脱出後は再び消灯、ということを行っていました。しかし、急行電車の場合、代官山も反町も通過駅ですし、トンネルそのものもそれほど長くないので、

そのまま突っ込んでしまえ

という猛者(?)が時々いて、一瞬車内が真っ暗になったことがありました。これは、幼少のころの管理人が実際に経験しています。

その2 都立大学通過時、110km/h超の猛スピードを出す

昭和50年代、東横線の急行は殆ど全てが7000系・7200系で運転されていました。自由が丘から上り急行に乗車すると、都立大学駅手前の緩やかな直線で加速をつけ、直線になっている都立大学駅を、線形の良さを生かして(?)、110km/hを超えるスピードで通過していったことがあります。これは、管理人が実際に乗車し、速度計を見ていたので覚えているのですが、確かに速度計の針が110の先を指していたのをはっきり覚えています。
また、これだけのスピードを出すとなると、7200系は走行音が静かなのでまだいいのですが、7000系は何ともいえない轟音を立てて都立大学を通過していきました。
7000系もやかましかったですが、管理人の記憶にある中で最もやかましかったのが、6000系(現在のではなくて先代のやつですよ。管理人が昨夏弘南に行って写真を撮ったあれです)。この車両は、「メェーエエェェー」などという、擬音では到底形容しがたい独特の音を出すのですが、その音が極限までやかましくなるのが、この都立大学駅通過時。もっとも、後になって文献を見てみれば、7000系よりも6000系の方がパワーが弱かったとのことですから、今にして思えば、実は6000系のやかましさは、スピードを維持するために目一杯加速していた結果かも知れません。

その3 8000系の急行

昭和50年代の東横線では、各駅停車と急行で運用が分けられており、特に後者は7000系や7200系の8連が多数を占めていました。
しかし、これらの車両は当時非冷房。現在では考えられませんが、当時の東急の冷房化率は大手私鉄全体の中でも下から数えた方が早い位置にあり(確か最下位は京成だったと思う)、優等列車の冷房化率が0%という状況下にありました。
かくてはならじと、東急も急行に冷房車を充当しようとするのですが、当時の東横線所属の冷房車は8000系の6連しかなく、7000・7200系の8連には収容力で劣るため、混雑する急行に使用するのには勇気が要ったと思われます。
そこで、東急はあまり混雑しなさそうな列車や時間帯を狙って8000系6連の急行を運転していました。当時の8000系は、側面が方向幕ではなく、あらかじめ仕込まれた「快速」「急行」の表示の後ろからライトを当てて種別を表示するという方式をとっていたため、急行に充当されると後ろのランプが光って「急行」の文字が浮き上がるようになっていました。
その後、新玉川線(当時)との車両の需給関係で8500系も東横線に配属されたのですが、8500系も急行に充当されました。しかし、8500系は側面方向幕を備えていたのですが、東横線の駅名が準備されていなかったようで、せっかくの急行運用も赤地に白で「急行」と表示してあるだけという、素っ気無いことこの上ない表示でした。その後も8500系は昭和63(1988)年ころまで、入れ代わり立ち代わり東横線に顔を出しますが、最終増備編成の8642F以外は、側面方向幕に行先が表示されることはありませんでした。
でも今となってみれば、そんな素っ気無い「急行」表示をもう一度見てみたいと思っています。

その4 7200系冷房改造車の「ブツ8」

これは昭和54(1979)年の田園都市線の運転系統変更のときから、昭和58(1983)年ころまで見られた編成ですが、デハ7200とクハ7500の2連が4本連なっているという、「ブツ8」の急行編成でした。
先頭車ばかりの「ブツ8」編成は、東武や近鉄などで見ることができますし、6連の「ブツ6」なら東横線各駅停車用に在籍していましたが、当時の東急では先頭車ばかりの8連は珍しかったです。
ただ、この編成はMT比率が低いためか、加速があまり良くなかったようで、現場ではあまりいい扱いはされていなかったようです。

その5 18m車の晴れ舞台・「51運行」

昭和50年代の東横線急行は、平日10編成・休日6編成で運用をまわしており、運行番号が51~60の間の数字に収まっていました(平日の57~60は朝ラッシュ時のみ)。
その中で「51運行」というのがあり、これは平日の場合、渋谷駅を午後4時半ころに出てとっとと元住吉へ入庫、夕方ラッシュ時には出てこないという運用でした。
昭和55(1980)年末の8090系投入に伴い、急行にも8000系や8500系が投入されていき、7000系・7200系は各駅停車用になったり他線にトレードされたりしますが、そんな中で18m車に唯一残った「晴れ舞台」がこの51運行でした。
しかし、18m車の急行編成は、冷房車が7200系の「ブツ8」しかなかったため、利用者には有難迷惑な存在でした。管理人の中学・高校時代、学芸大学7時22分(だったと思う)発の上り急行が51運行で、非冷房車ばかりだった上に混雑率が半端ではないため、管理人は殆ど乗車せずホームで見送り、次の各駅停車に乗っていきました。
その後、昭和60(1985)年だったと思いますが、夕方にも急行列車が増発され、夕ラッシュ前にとっとと入庫する51運行はなくなりました。東横線急行が全て20m車に統一されたのは、昭和58(1983)年のことです。

そのほかにも、8000系まで使用していた「急行」の赤いサボや、8033F以降標準装備されるようになった側面の行先・種別表示幕など、いろいろあるのですが、急行は東横線唯一の優等列車として君臨していました。

しかし、様々な要因が重なって停車駅が増えすぎてしまい、それにより愛好家などからは東横線の急行を「隔駅停車」などと揶揄されるようになり、渋谷-横浜間の都市間輸送には物足りなくなってきました。
そこで急行以上の優等列車の誕生が熱望され、ちょうど10年前の平成13(2001)年3月28日から、急行以上の優等列車「特急」の運転を開始しました。特急運転開始後も、急行も以前と変わらず運転され、現在に至っています。

どうでしょうか?
「隔駅停車」とか揶揄されている東横線の急行ですが、結構アツいでしょ(^^)