その5(№1424.)から続く


既に何度か言及していますが、京成は昭和47(1972)年に成田空港への新線を完成させ、日本で初めての空港連絡特急の任に就くAE形車両も落成させました(当面は6連×5本)。

この車両は、1600形以来の完全な特急用車両ですが、そのスペックは以下のようなものでした。


1 界磁チョッパ制御を京成で初採用、しかも定速走行装置を備えていた(50km/h以上)。
2 MT比率は4M2T。両端はTc車で、将来的には10連化する予定だった。
3 車号は成田方からAE1-AE2-AE3-AE8-AE9-AE10で、末尾4から7は欠番。
4 外装は1600形と同じマルーンとクリームのツートンだが、窓周りをマルーン、上下をクリームにするなど当時の国鉄特急カラーに準拠した塗り分けだった。
5 先頭部は胸をぐっと張り出したような直線的な流線形とされ、スピード感を強調。
6 内装は転換クロスシートとし、各車に荷物置場を設置。


本来であれば、成田空港の完成は昭和48(1973)年中とされており、この車両も開港と同時に華々しく空港特急の任に就くはずでした。「スカイライナー」の愛称も、昭和47(1972)年には公募によって決まっておりました。

にもかかわらず、執拗にして凄惨を極めた「成田闘争」によって開港は伸び伸びにされ、それがこの車両の運命を翻弄していくことになります。


成田空港の開港の目途が立たないため、AE車たちは本来の運用に就くことができず、宗吾の車両基地で実に1年半にもわたって、「放置プレイ」の憂き目に遭っていましたが、昭和48(1973)年12月30日から、ようやく定期運用に就きました。ただし定期運用とはいえ、往年の「開運号」を思わせる、1日にたった1往復だけという、非常に細々としたものでした。

しかも、この列車は座席指定制でありながら列車愛称がなく、前面の愛称表示幕には「特急」という表示を出して運転していました。以前の記事でも取り上げたとおり、座席指定制の列車であっても愛称名は必須というわけではないですし(○○駅×時×分発の特急を△枚といえば列車の特定は可能)、名鉄や近鉄などは「名無しの特急」を運転していますが、「開運号」という立派な愛称とヘッドマークが備えられていた1600形の時代と比べると、何ともさっぱりしてしまったものだと思います。この「名無しの特急」は翌年12月には3往復に増発されています。
ただ、このときの運行形態はあくまで暫定的なものでしたが、そのための認可を関係省庁から得るのは大変だったようです。


そんな中で、初代AE形にとっての慶事は、鉄道友の会から1972年度のブルーリボン賞を受賞したことでした。もちろんこれは京成の車両としては初の受賞となりましたが、受賞の決め手となったのは、日本で初めての空港連絡特急であること、それに特化された設備や性能を備えていることもそうですが、最大の理由は1600形以来の本格的な特急用車両だったことだと思います。ただし内装に関して言えば、1600形は簡易リクライニングシートを装備していたのに対し、初代AE形は転換クロスシートでしたから、こと座席に関する限りは1600形よりも後退しています。これは恐らく、「開運号」のような特別な列車ではなく空港連絡列車であることや、折返しの手間を省くという目的もあったと思われます。


成田空港の開港は昭和50(1975)年になっても全く目途が立たず、しかも当初の計画だった3本の滑走路も1本しか確保できない状態でした。昭和52(1977)年には反対派の設置した鉄塔を強制的に撤去することができ、ようやく翌年3月末に開港にこぎつける目途がたつようになっています。京成は開港後のダイヤを見直し、「スカイライナー」に必要な車両の数が1編成足りなくなる計算になったため、6連×1編成を新たに投入しています。

しかし、開港を4日前に控えた翌年3月26日、過激派が管制塔に侵入して占拠し各種設備が破壊され、開港予定はまたまた延期されてしまいました。

そしてその年のGW。開港を待ちわび、地道な企業努力を続ける京成をあざ笑うかのような、凄惨かつ腹立たしい事件が起こってしまいます。

5月5日の午前3時ころ、深夜の宗吾車両基地に留置中だったAE形の1編成(AE21~30編成)が、仕掛けられた時限発火装置により出火しました。通行人が発見し110番通報され消火活動がなされましたが、火の勢いが強く6両中4両が焼け落ち、中でもAE29号の焼け具合が最も酷く、すぐに廃車の措置がとられました(その後すぐに2代目AE29号を新造、他の3両は復旧)。しかし、これによって稼働可能な編成が1編成減ってしまい、開港後の空港輸送に甚大なダメージを与えることになってしまいました。開港後にもう1編成追加投入したものの、1編成が使えなくなったダメージは大きく、已む無く京成はスカイライナーを当初のダイヤから減便しています。


遂に、昭和53(1978)年5月20日、成田空港は開業することになります。これによって京成の空港線も開業、「スカイライナー」も運転を開始し、AE形は昭和47(1972)年の登場後6年後にして、やっと本来の任務に就くことができました。


さあ、これでようやくAE形も本領発揮…と思いきや、そうは問屋が卸しませんでした。

その理由は、「スカイライナー」の利用が全く伸びなかったことです。その要因は、海外旅行が特別なものではなくなり、以前のように家族総出で送迎に出るケースが少なくなったことや(空港線の建設当時、京成はそのような需要も見込んでいたらしい)、過激派の抵抗が予想されたため空港内への立ち入りが非常に厳しくなり、実際に航空便に乗車する人や航空会社の関係者、空港職員しか事実上出入りできず、見学・送迎目的の立ち入りがほとんど認められなかったためです。さらに、ターミナルの京成上野駅が国鉄(当時)や営団(同)の上野駅からは距離があり乗り換えに難があったことで敬遠されたことも理由ですが、最大の理由は、当時の成田空港駅がターミナルビルの直下になく(現在の東成田駅が当初の成田空港駅だった)ターミナルビルへはさらにバスに乗り継ぐ形をとっていたため、海外旅行者には不便という印象を持たれてしまったことでした。現在の東成田駅から成田空港のターミナルビルまでは、無料連絡バスがあり10分足らずで第1・第2いずれのターミナルにも行くことができますので、今にして思えば不便だと糾弾されるまでのことはないと思いますが、当時は不便さばかりが強調され、海外旅行者はリムジンバスに流れてしまいました。これは、当時のマスメディアが「不便さ」をことさらに強調したのも大きかったと、当時の京成の幹部が語っていますが、こういう「報道被害」にマスメディアが責任をとった事例はほとんどありませんよね。つくづくマスコミは無責任だと思います。


閑話休題。

成田空港駅の立地には難があったものの、その後海外旅行客が漸増していったこと、渋滞のリスクがあるリムジンバスが敬遠されるようになったことから、少しずつ「スカイライナー」や京成の利用も伸びていきました。AE形もイメージアップのため、昭和58(1983)年には車体色の変更と内装のリニューアルを行い、白地に青と赤の帯を巻くようになります。さらにこの年の年末には上り列車のみ日暮里に停車するようになり、東京の都心部へのアクセスが改善されました。ただし下り列車が日暮里に停車するようになったのはずっと遅く、平成3(1991)年3月になってからのことでした。


成田空港線開業までに、京成は様々な試行錯誤を重ねているのですが、現在でも見られるものもあれば、陽の目を見なかったものもあります。

次回はそのあたりのお話を。


その7(№1440.)に続く