その9(№1281.)から続く


1日遅れの更新失礼いたしますm(__)m


前回みたとおり、国鉄は「通勤五方面作戦」の一環として、東海道線と横須賀線の分離(MS分離)に着手します。

これに関する工事は、概ね以下のように推移します。


昭和47(1972)年7月15日

総武線東京-錦糸町間新規開業、錦糸町-津田沼間複々線化完成。「総武快速」運転開始。
昭和50(1975)年

国府津電車区(現国府津車両センター)一部供用開始。ただし、完全な完成は昭和54(1979)年。
昭和51(1976)年10月1日

東京-品川間の地下線開業。総武快速の乗り入れ開始。


このようにして、横須賀線が総武快速線とつながる前提となる品川-東京-錦糸町間の地下線が完成し、東海道線用の電車を大船電車区(当時)から分離して配属するための車両基地も完成しましたが、鶴見-大船間の新しい貨物線の工事は難航していました。その理由は、経由地にあります。国鉄の計画では、途中に貨物駅(横浜羽沢)を設けることを前提に、東海道線からかなり内陸部に入った横浜市神奈川区などを通過するルートに決まったのですが、この沿線は貨物列車が通るだけで、利便性が改善するわけではありませんので、沿線住民を中心に反対運動が起き、工事がかなり遅れてしまいました。

それでも、車両面での改善は進められ、不相応な豪華仕様でセレブリティの顰蹙を買ったサロ113に代わるグリーン車、サロ110-1200を昭和51(1976)年から投入します。この車両は当時の特急用普通車が装備していた簡易リクライニングシートを装備し、定員も60人が確保され、「座れない」というセレブたちの不満はとりあえず解消されます。この車両と引き換えに編成から抜かれたサロ113は関西に転じることになりました。さらに、普通車の体質改善としては、昭和54(1979)年からボックス席のシートピッチを拡大した1500番代を、大船・幕張の両区に投入しています。

ただし、このころはまだ総武快速にはグリーン車が連結されていません。


ちなみに、総武快速にグリーン車を連結するのかという話は、当時の国鉄内部でも相当話題になっていたようです。

その理由は、横須賀線と総武快速線の両線の沿線イメージの落差と、横須賀線ほど需要があるのかに懐疑的になっていた点が指摘されていますが、当時の国鉄は路線の「格」というものを重視していましたから、恐らくグリーン車を連結している東海道線や横須賀線は一流の路線で、それ以外は一歩譲る、したがってその「一歩譲る」路線の列車にグリーン車など不要ではないか、という考えもあったのではないかと思われます。のちに、「総武快速ではグリーン車の需要はほとんどない」という当時の予測が完全に覆ることになるのは、皆様良く御承知のとおりです。


一連の工事が完成し、「SM分離」が実現したのは、東京地下駅開業から8年後、昭和55(1980)年10月1日のことでした。横須賀線は東京地下駅発着に改められ、総武快速線と相互直通運転するようになりました。品川までは先行開業した地下線を通り、その後は品鶴線を進んで鶴見から東海道線と並走するようになりました。品鶴線上には、新鶴見操車場に隣接して新川崎駅が設けられています。横浜-大船間では戸塚駅が改修され、東海道線と横須賀線が同じホームで乗り換えられるように配置されました。と同時に、それまで同区間がノンストップだった東海道線の電車も、戸塚駅に停車するようになっています。

また車両面では、総武快速用として幕張電車区(当時)に配属されていた113系について、横須賀線と同じグリーン車組み込みの編成に改められ、大船所属車とともに両線の運用に就いています。


「SM分離」の実現によって、東京-大船間の線路容量にかなり余裕ができ、両線とも増発が可能になり、混雑率の改善が図られた。…と思えますが、実はそうバラ色の話ばかりでもありませんでした。

それは、横須賀線電車が品川-鶴見間で品鶴線を経由するために距離が長く、まっすぐ走る東海道線の電車よりも時間がかかることと、新橋・東京の両駅が地下深くなってしまったことでした。本来の横須賀線区間、つまり北鎌倉以遠から東京へ向かう乗客は、時間がかかることと新橋・東京両駅の深さを嫌って、戸塚で東海道線の電車に乗り換える人が多く、東海道線はかえって混雑を募らせてしまいました。距離の差の問題はいかんともしがたいのですが、時間がかかる点はスピードアップでカバーし、その後は所要時間に関する限り、東海道線の列車横須賀線のそれとの間に顕著な差は見られなくなりました。しかしその後、横須賀線の方が西大井駅開業などで停車駅が増えているため、その効果も相殺された感もありますが、現在はそれほど両線に顕著な混雑率の差はないようです。これは、誤解を恐れずに言えば「諦め」と「慣れ」の結果ということなのでしょう。

さらにいえば、「SM分離」の完成当初は、まだ津田沼-千葉間の複々線化が完成しておらず、黄色の各駅停車と113系電車などが同じ線路を走る光景が見られました。しかしそれも1年限りで解消され、昭和56(1981)年には複々線が千葉まで延長され、緩行線と完全な分離が実現しています。

もうひとつの問題は、横須賀線電車がそれまで東京駅始発で座れたのに、千葉方面から来るために座れなくなってしまったということです。この問題は都心部をスルーする相互直通運転について必ず付いて回る問題ですが、当時はかなり話題になったように思います。現在は「東北縦貫線」工事も進められており、これが実現すると東海道線の列車も東京駅始発の列車が激減してしまうことは確実ですが、このあたりは利便性向上の陰の部分ではなかろうかと思います。


余談ですが、昭和55(1980)年10月1日は全国ダイヤ改正の日でもあって、全国的にダイヤが改められ、関西地区の113系からグリーン車が外されています。このとき、関西に転じていたサロ113は東京に戻り、再度スカ色に塗られて幕張に配属され、同区の113系編成に組み込まれました。このころになると、セレブたちからの苦情もぱったりなくなりました。理由はよく分かりませんが、横須賀線電車が「SM分離」実現で増発が可能になり、それによってラッシュ時の本数も相当増えたので乗車のチャンスが増え、問題にならなくなったのでしょう。


次回は、東海道線からの80系撤退、113系の新バージョン登場から211系登場前夜までを取り上げます。


その11(№1296.)へ続く