今回は、ブログナンバー924にちなみ、かつて「太公望列車」として名を馳せた長距離鈍行を取り上げます。


この「太公望列車」の起源は、昭和34(1959)年の紀勢線全通と同時に運転を開始した、天王寺-名古屋間の夜行普通列車921・924列車です(夜行区間は天王寺-新宮間)。この列車には南海からの直通車両が連結されていましたが(サハ4801形。風貌はスハ43形と同じ)、昭和47(1972)年3月のダイヤ改正の際に中止されています。
この列車を有名にしたのは、ひとつには関西から紀伊半島沿岸への釣り客に愛用されたこと(太公望列車の異名はここから来ている)、もうひとつはこの列車が寝台車を連結していたため、この列車がマルスシステムに組み込まれた際に「南紀」という列車名がつけられたことです。寝台車そのものは、この列車の運転開始当初から連結されていたようですが、マルスシステムに組み込まれる以前は「地域限定」の扱いがとられ、この列車の沿線の駅で優先的に売るという扱いをしていました。この列車の寝台車がマルスシステムに組み込まれたのは昭和49(1974)年ですが、そのときに「南紀」の愛称がつけられ、その愛称がこの列車を一躍有名にしました。
またこの列車は、牽引する機関車にも特徴があり、阪和線区間(天王寺-和歌山間)だけが電気機関車の牽引だったのですが、昭和50(1975)年ころまで、我が国最初の国産大型機・EF52が先頭に立つことも多かったようです。また、この列車は主に東側(新宮-亀山間)で、黎明期の電気式ディーゼル機関車・DF50が先頭に立っていました()。


※=ミケの手もかりたい様の御指摘に鑑み、修正いたしました。御指摘ありがとうございますm(__)m


この列車にとって、愛称がついたのがひとつめの転機であったとすれば、ふたつ目の転機は、恐らく昭和53(1978)年10月の紀勢線電化でしょう。このとき、それまでのDD51からEF58になり、EF58が新宮まで牽引するようになりました。

実はこのときのこの列車の変化は、電機牽引区間の延伸だけではなく、愛称の変更もあります。この紀勢線電化完成のとき、同線は新宮を境に東部と西部で運転系統の分断が行われ、特急「くろしお」の天王寺-新宮間は381系電車に置き換えられ、名古屋-新宮-紀伊勝浦間だけを従前どおりのキハ82系の特急としたのですが、このキハ82系の特急が「南紀」となったため、以前は「南紀」を名乗っていたこの列車は「はやたま」と改称されました。形としては、愛称が特急に取り上げられたようなものですが、「はやたま」も沿線の速玉大社にちなんだ愛称ですから、きちんとした意味はある愛称だったのです。

ただし、この列車の運転区間は、従前どおり天王寺-名古屋間とされました。これは、乗客の便宜というよりは、この列車には郵便車や荷物車が連結されていたため、郵便・荷物輸送の便宜を図るためという理由の方が大きかったのでしょう。


このころは紀勢線の夜行需要も大きなものがあり、天王寺始発の列車にはこの「太公望列車」のほか、夜行の急行「きのくに」もあり、しかも海釣りや海水浴のシーズンなどには、指定席を設けた臨時の夜行快速「いそつり」も運転されるほどでした。紀勢線の東側も、名古屋発の夜行急行「紀州」もありました。ただし、夜行の本数は名古屋・天王寺から新宮方面へ向かう列車の方が多く設定されていました。これはこうした列車の主たる顧客である釣り客の流動の実態に沿ったものですが、このあたりは登山客を主たる顧客とする中央線系統の夜行列車に相通ずるものがあります。


しかし、昭和57(1982)年5月の関西線名古屋-亀山間電化完成と共に、921・924列車は同区間がカットされ、亀山発着とされました。さらにその2年後の昭和59(1984)年2月には、それまでの旧型客車から12系に置き換えられたかわり寝台車が外され、さらに運転区間も天王寺-新宮間とされ、紀勢線の東側には行かなくなってしまいました。寝台車が外されたのは、使用していた10系寝台車の老朽化・陳腐化が理由ですが、ことによると末期は、利用率そのものも振るわなかったのでは…と思います。

このころは上下揃っていたのですが、国鉄としては最後となる昭和61(1986)年のダイヤ改正の際、それまでの12系客車から165系電車に変更され、同時に921列車にあたる新宮発の列車を廃止しています(このころは亀山→新宮→天王寺が下りだった)。これは、この改正の際に国鉄が郵便・荷物輸送を全廃してしまったので、郵便・荷物車を併結する必要がなくなり、よってこの列車が客車列車である必要もなくなったためです。ちなみに、この1年前の昭和60(1985)年3月のダイヤ改正で天王寺発着の気動車急行が全廃され、当然夜行の「きのくに」も廃止されましたが、このころはまだ結構な頻度で臨時夜行普通列車が運転されていました。

結局、「太公望列車」は天王寺発の下りのみとなりましたが、その状態でJR化を迎えています。


JR化後のこの列車に訪れた最初の転機は、平成2(1990)年のダイヤ改正です。このとき、「太公望列車」は始発駅が新大阪駅に変更され、同時にそれまでは阪和線内が無停車だったのが快速停車駅にも停車するようになりました。これは恐らく、新幹線から阪和線沿線・和歌山方面への接続を考慮しての結果でしょうが、その一方で、165系編成6連のうち3連が紀伊田辺止まりとされ、新宮まで直通するのは3両のみとなりました。


管理人は、平成4(1992)年7月にこの列車に乗車したことがあります。3両しかない新宮行きの車両に座れないと大変なことになると思いましたので、発車の1時間前に新大阪駅に行き、ボックス席を確保しました。

しかし新大阪発車時でも完全に満席になった訳ではなく、しかも阪和線内で結構下車客があったため、和歌山を発車する際には1ボックスに管理人1人となり、拍子抜けしたことをよく覚えています。


夜行列車の退潮傾向の中で、夜行普通列車は貴重な存在となりました。特に、「名無しの夜行」として著名だった通称「大垣夜行」が373系電車化され「ムーンライトながら」になったときには、毎日運転の夜行普通列車はこの列車だけになってしまいました。中央線の列車はありましたが、あれは甲府駅での長時間停車により別列車になる取り扱いだったので、純然たる1本の列車として運転していたのはこの列車だけとなります。

そうなると当然、愛好家からの注目も集まるわけですが、そのような注目だけで列車が存続できるわけもなく、遂に平成11(1999)年10月、紀伊田辺-新宮間が臨時に格下げされ、このとき「名無しの夜行普通列車」が全廃されたことになります。

その後は細々と、紀伊田辺以遠が多客期に運転されるようになりますが、それも長くは続かず、遂に平成12(2000)年9月末、臨時列車としての運転も終了します。

このときが、本当の意味での「太公望列車」の終焉といえるのでしょう。


現在最新の「JTB時刻表」2009年4月号を見ると、新大阪22時46分発紀伊田辺行き2995Mが健在ですが、この列車こそかつての「太公望列車」の末裔といえるものです。

管理人は釣りをやらないので、釣りをする人がどのような行動をとるのかは分かりませんが、早朝から出かけるのであれば、釣り宿などに泊まるなどするか(これなら無理に夜行列車で出かける必要はなくなる)、あるいは車で出かける人も多くなったのでしょう。

この2995Mは、列車のダイヤそのものはほぼ当時のままですが、もはや「太公望列車」ではありません。


時代の流れというものは、つくづく残酷なものだと思います。