□ヨハネ福音書4章では「天の父を礼拝しなさい」と教えている
イエス・キリストの弟子として、また、神の子どもとして生涯をまっとうしていく際に、「礼拝」はきわめて大事です。キリスト教会の「日曜礼拝」のことを言っているのではありません。御子イエスがヨハネ福音書4章で教えている「霊とまことによる礼拝」のことです。
イエスがヨハネ福音書4章でサマリア人の女に告げた礼拝のあり方。
その内容はどういうことでしょうか?
イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
ヨハネ4:21-24
「天の父を礼拝しなさい」と教えています。
「主イエス・キリスト」や一般名詞としての「主」を礼拝しなさいとは教えていません。
1世紀の御子イエスにとって「天の父」とは「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であり、固有名詞ではイスラエルの神であられる「YHWH」という名を持つ神のことです。ヘブライ語原典を確認するならそうです。
この神を「霊とまことによって」礼拝しなさいと教えています。(この辺、「父と子と聖霊とは三つにして一つ」の中にいると、ボケボケで、よくわかりません…)
これはどういうことでしょうか?
□霊によって礼拝するとは?
まず、「霊によって」礼拝するとはどういうことか?
御子イエスはマタイ6:6で「隠れた所におられるあなたの父」と言っています。英語訳を確認すると「隠れたところにおられる」の意味で「目に見えない(unseen)」と「隠れて(in secret)」が使われています。
御子イエスが、マタイ17章、マルコ9章、ルカ9章のいわゆる「山上の変容」のところで天の父と出会った際に、天の父は、光り輝く雲として来られました。以下がその聖句です。
彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。
マタイ17:5
そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。
マルコ9:7
すると雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。
ルカ9:35
このように「ふだんは目には見えない」「光り輝く雲を従えた栄光として現れる」、そうした「霊」として存在なさっている天の父を礼拝するには、こちらも「霊」でなければならないということです。
それは何によって可能になるでしょうか?
こちらも「聖霊をいただいて、霊的な存在として礼拝する」ということです。
残念ながらキリスト教の枠組みの中では、4世紀に人間がこしらえた「神」(三位一体)が中心に置かれているがために、真の聖霊が誰にも下っていません。
聖霊は、1世紀のイエス・キリスト昇天後の初代教会の信仰、ないしパウロが宣教していた教会の信仰を取り戻して、イエスの教えどおり、パウロの教えどおりに信徒の活動をする兄弟姉妹(ギリシャ語のエクレシア。"教会"と訳される言葉。”神の下に集まるようにこの世から呼び出された人の集まり”という意味)に下ります。
1577. ekklésia ←日本語で「教会」、英語で「Church」と訳されている大元のギリシャ語。英語で意味が解説されています。
聖霊をいただいて天の父を礼拝する。聖霊に満たされて天の父を礼拝するとは、天の父も霊ですから、ある意味、霊と霊とで直結した形で礼拝するということになります。天の父の思いがダイレクトに聖霊をいただいたキリスト者=神の子どもに伝わってきます。またそれと並行して、キリスト者=神の子どもの思いもダイレクトに天の父に伝わります。
この礼拝は、実は、御子イエスが早朝まだ暗いうちに一人で祈っておられた、あの形です。
さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。
マルコ1:35
しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。
ルカ5:16
群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。
マタイ14:23
これは、イエスご自身がヨルダン川での洗礼の時にいただいた聖霊によって、「天の父と向き合って祈る祈り=礼拝」であると同時に、「天の父の子どもとして祈る=礼拝」でもあります。
イエスがヨハネ4章で教えている「霊とまことによって、天の父を礼拝する」ことの前半「霊によって礼拝する」とは、天の父からイエスの名によっていただく「聖霊によって礼拝する」ということです。その礼拝は「神の子どもとして、天の父に向き合って礼拝する礼拝」でもあるということになります。なぜなら聖霊は「(神の)子としてくださる御霊」であるからです。
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。
ローマ8:15
それが御子イエスが教える「霊とまことによる礼拝」の前半の要素です。