世が与える…のとは異なる平安 | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Pedro Szekely

 

 

ヨハネ14:27で主イエス・キリストが教えておられる「平安」。「世が与える…のとは異なる平安」。

わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。
ヨハネ14:27

この平安は、ギリシャ語原典の意味を確かめると、

eiréné
HELPS Word-studies
1515 eirḗnē (from eirō, "to join, tie together into a whole") – properly, wholeness, i.e. when all essential parts are joined together; peace (God's gift of wholeness).

すべての欠くことができない部位が一緒に合わさった「全体的である状態」だそうです。その結果として、平和な感じがあり、平安が満ちます。

イエス・キリストが共におられることは、神の御子が共におられるということであり、常に天の父の右の御座にいらっしゃって執り成す方が、自分の味方だということです。

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
ローマ8:34

従って、何も欠けることがなく、「全体的である状態」が訪れて、結果として「世が与える…のとは異なる平安」がその人に満ちます。



この世の中で生きていると、時々、昔の自分がよく出くわしたような、居ても立ってもいられないような不安に陥れる出来事がやってきます。

例えば、○○○○○○ができそうにない。
xxxxxxxが間に合わない。
△△△△△△がやってくる。
などなど。


昔の自分であれば、パニックになっていたような展開が、イエス・キリストを本当に信じて、本当に救われて、それと同時並行で、本当の聖霊が下った後でも、訪れることがあります。

「救われているはずなのに、なぜ?」というような出来事が訪れることがあります。
主イエス・キリストにあって、神の国がやってきて、その内にいるのに、なぜ、こういう、昔の自分に起こったような出来事が、今また再び起こるのか?そういう疑問が湧くような展開です。

例えば、○○○○○○ができそうにない。
xxxxxxxが間に合わない。
△△△△△△がやってくる。
などなど。


しかし、そういう時でも、イエス・キリストは、

あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

と教えています。なぜなら、何も欠けることがない、全体的な平安が、自分に訪れているからです。

そうやって、状況をよく見てみると、昔の自分がパニックに陥ったような不安な出来事は、よくよく見てみてば、主イエス・キリストにあって何でもない、ということがわかってきます。「なあんだ、何も恐れるものはないではないか」。別に、大したことではなかったということが、よく理解できてきます。

例えば、○○○○○○ができそうにない。
xxxxxxxが間に合わない。
△△△△△△がやってくる。
などなどに関して。